東京日記

2月 1st, 2009 § 0 comments § permalink

東京日記といっときながら全然日記ではない。「日常の中に突如ひらける怪異な世界」ではなく怪異な世界そのものだ。

私は二、三日前からそんな事になるのではないかと思っていたが、到頭富士山が噴火して…

こういうことをしれっと書いて、奇を衒うところのないのが迫力だと思う。世界そのものなのだと思う。

逆に、平凡だと油断して膝を抜かれるのが「柳撿挍の小閑」。箏を教える盲人の心情など機微に疎い私の埒外と安心しきっていたら、俄然と想像を展開される。73ページの最終行で。無理だこれはオレには引き受けられない。引き受けられないが実際問題として多分すでに引き受けている。こういう気持ち、10年前にはわからなかったなぁ。5年前でもあやしいだろう。そういった種類の、経験じゃなくて経年なのだ、意気地がなくて御免なさい。

日月両世界旅行記

12月 6th, 2008 § 0 comments § permalink

月はまだわかる。も、太陽がいよいよもってわからない。

私はからだのまわりに露を満たしたガラスびんをたくさんくくりつけた。(p.12)

月に行くときのスタイルです。実際は(実際は?)「いくらでも高く上昇できると思われる機械」(詳細解説なし)で飛び立つのですが、基本的な推進力はこのガラスびんです。ガラスびんはフラスコ状で、15ページの挿し絵では、瓢箪を腰の周りにぶら下げた男が、「うひゃあ」というポーズで宙に浮いています。瓢箪の中の空気が熱せられて軽くなり?宙に浮かぶ?うん、セーフ。ギリギリセーフ。これなら月に行けるかも知れない。何をやっているんだこの人はと思いますが説得力、ギリギリあります。

が、しかしですね。太陽へは、箱でいくのですね(p.237)。えぇ。箱としか呼びようがありません。手品とかに使いそうな感じの。一応、帆のようなものが付いています。風を受けるのか?風で太陽まで昇るのか?

まぁいいです。いくんです。いけたんです。いけたはいいんですけど太陽の、何をどう解釈していいかわからない。

そこである動物が息絶えると、いや、もっと正確にいって、消えてしまうと、その実体を構成していた火性の小物体はこの燃え立つ世界の粗大な物質の中に入る。そして偶然にあの三本の川の退役に潤されるようになるのを待つのだ。そのときになるとこれら小物体は、それが本来もっている流動性のゆえに動きが自由になり、川の水によって漠然とながら教えられた諸機能を早く実行しようと長い繊維状になって互いに結びつき、発行部分の入出によって鋭い光線となってまわりの諸天球へと広がっていく。(p.381)

これ、まだまだ続きます。太陽に住む動物たち(平均寿命7〜8000年)の死に様を描いているのですが、具体的にどういう絵を想像すればよいのかわかりません。そのせいで、ガリバーよりもマイナーなのだと思われます。

月よりも太陽が難しいのは、月からは戻ってくるけども太陽へは「行きっぱなし」(未完?)だからかも知れません(ネタバレなので伏せておきます念のため)。

金閣寺/龍安寺/仁和寺

11月 23rd, 2008 § 0 comments § permalink

世界遺産シリーズ第三弾、金閣寺・龍安寺・仁和寺でございます。前回(宇治)、前々回(比叡山)とほとんど知らない土地でしたが、今回は土地勘があります。とはいえ10年以上ぶりです。

金閣寺道のバス停で市バスを降りて、金閣寺へと向かいますが人。そして人。あまつさえ人。ハイシーズンであり、3連休であり、観光地であるならば混雑は必定ですが、まさかここまでの人出とは。私構成員Kは金閣寺初めてです。裏手のほうに3年ぐらい住んだことがあるのですが…。

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一体ここはどこなんでしょう。合成写真のように浮かびあがる金色のオブジェ。カオスという他ありません。マスターこれが禅の境地ですか。

そして土産物屋で『How To Practice ZAZEN』をゲット!Daisetsu Suzukiによる「十牛図」の解説が収録されるなど、かなりありがたい内容になっています。近々のうちにレビューをお届けしたいと思います(店主が)。

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さてさて、興奮冷めやらぬうちにきぬかけロードを抜けて目指すは、龍安寺ロックガーデンです。ワビ&サビで知られています。ドライ・ヒルズ&ポンドです。

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ロックガーデンを一目見ようと全国各地から集まった若者たち。

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こちらは昭和30年代のロックガーデン。今も昔も変わらぬ熱気です。

龍安寺境内の南半分は鏡容池なる池になっており、周囲をぐるりと巡る庭道がおもしろい。私としましてはむしろこちらがおすすめです。

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池の中に鳥居があり、

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朱塗られた鳥居があり、

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柿がなり、

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変な木が伸び。

この鏡容池はたぶんドーナツの穴なんですね。境内のぐるりがドーナツで、池がドーナツの穴。つまり、龍安寺を構成する要素として必要不可欠なんだけども、龍安寺本体が消滅すると同時に、池も消滅してしまうのです。ありもせずなきにしもあらず、といったような具合で。

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前の二寺とは対照的に、仁和寺の境内は広々としています。旧御所であり、真言宗御室派の総本山です。

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建物は大きく、庭も賑々した感じで。

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前衛生け花展開催中。残念ながらほとんど理解できませんでした。

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帰り妙心寺への道すがら、偶然のワンダアカフエに行き当たり。どこでお茶を飲もうかと思案していたところでした。

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昔は天神さんのところにありましたよね。シュークリームとコーヒーをいただきました。店主カスタード、私はチョコレートでございます。ボリューミィ。

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気がついたときには、おなかの中ですのよ。あいにくと。

平等院/宇治上神社

11月 2nd, 2008 § 3 comments § permalink

宇治へいってまいりました。源氏物語千年紀で蒸れ返っている宇治です十帖ですえぇもちろん読んでませんよ。先週の比叡山、そして今週は宇治というのは何の連続かと申せば世界遺産なのです(京都府のページ)。権威にはめっぽう弱い私鯖書房構成員のKと申します。

奈良線で普通列車に揺られて30分、同じ京都府下に30余年暮らしておりますが、JR宇治駅に降り立つのは初めてでございます。店主は修学旅行で踏んでいるそうです。

歩くこと10分足らず、商店街と表参道を抜けたところに、平等院は開かれています。信仰告白しておきますと、平等院については「十円玉」以上の知識はありません。

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たいそう立派な建物です。とても十円玉でできているとは思えません。

平等院入場切符売場で、「鳳凰堂は一時間待ち」と警告されていたので早々とあきらめて、浄土への待ち行列に居並ぶ人々を眺めておりました。

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浄土というのはすなわちピュアランドです。ピュアなハートをもつエンジェルたちしか入れないといわれています。フェニックス!雲中菩薩!阿弥陀如来観音堂!

だんだん宗教観があやしくなってきたところで、もうひとつの目的地、宇治上神社へと向います。平等院からは宇治川を渡って徒歩10分程度のところです。近いです。七五三ということで、晴れ着に千歳飴と洒落込んだ子供たちやチルドレンで沸き返っているかと思いきやむしろ観光目的とおぼしき老若男女たちが全国各地から集まっている集結しているし集団結了しているのです。通れない。

人並みを分け、うっかり宇治神社に突入しそうになりつつもやっとのことでたどりついた宇治上神社は、一言であらわすなら、地味。二言なら、地味に枯れている。三言許されるなら、地味に枯れていて裏は山。トレジャーワールドパワーで集客力こそ保ってはいるものの、いわれなければ神社とは気づきません。どっちかっていうと、寺です。寺枯れしています。むしろテンプルなんです。違いますが。拝殿を横目に本殿のほうへ回ってみれば、狛犬が何かしら執り行われている神事を見守っていました。

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源氏物語はスルーして帰りました。京阪電車までは10分ぐらい。京阪宇治駅には幼少のころの記憶がありますが、見事に一掃されました。95年に新駅舎か。なるほど。

京都市内からだと半日行ですね。存外に近いですよ宇治。

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虚学と実学

10月 12th, 2008 § 0 comments § permalink

人が生きていくのには虚学が必要です。虚学というのは具体的に名指すのは難しいのですが、例えばライプニッツとか、書肆風の薔薇とか、そういった類いの羨望であると私は思います。私は、人は虚学のみで生きていくのだと23歳頃までは信じておりました。実学というものがこの世に存在することを知らずにいたのと、あとこれは臆見以外の何ものでもないのですが、90年代という空気がそれを許していたのです。実学というものの存在を知るきっかけとなったのはコンピュータです。私は23歳の頃に生まれてはじめてパーソナルコンピュータとの対面を果たしたのですけれど、なぜコンピュータが私に実学を知らしめたのかについては、まだうまく説明できないので、今日のところは触れません。ただ、虚学だけで生きていくのは困難で、実学をも吸収していかねばならないのだと、23歳の私は強く意識したのでした。

実学とは何か虚学とは何か、抽象的にといいますと、実学とはみんなを幸せにして誰かを不幸にする実であり、虚学とは誰をも不幸にはしないが自分だけが幸せになる虚です。だから私は人類全部が虚学をやればいいと思っておりました。人類が全部、虚々諤々のうちに、虚学をやれば幸せだと思っておりました。でもそんなことは無理なのでした。人類は私が思っているほどには、虚学というもののもたらす多幸感を享受しないのでした。残念だ。だから、実学が必要とされてきた。

実学というのは比較的容易に名指すことができるもので、具体的にいいますとゲーム理論です。ゲーム理論こそが実学であると、今年に入って知りました。今年に入って知ったのですが、忙しくもないのに忙しいふりをしているうちに10月にもなってしまい、慌ててゲーム理論をやさしさでひも解いた読み物を入手したのでした。実学をやらないと生きていかれない。われわれはパンを食べずには生きていかれないし、パンがなければあんパンを食べればいいし、アンパンマンを呼べばいい。噛ればいい。

やっと、本題に入られます。これくらい言い訳しないと入られません。

本書はゲーム理論を最も簡単なことばで説いた一般書です。簡単とはいえ、インセンティブとかコミットメントとかシグナリングとか、もう毎週毎週耳にするから何となくわかったような気にはなっていたけど、じゃあ何?って聞かれると何も答えられないような専門的な概念について、しっかり抑えてくれています。専門的?専門的です。コミットメントなんて、まず、日常生活では使いません。耳にはしますが、口にはしません。少なくとも私は何かにコミットメントしていることを意識しながら生活する環境に馴染んでいません。馴染んでないから、実学の存在をすら知らなかったのですよ。

あらゆる具体例をスルーして私の理解したところをまとめさせていただくと、戦略的環境においては自分だけが合理的なのではなくて相手も当然に合理的なのであり、相手は戦略的に最も有利な方法で攻めてくる、ということを念頭において、相手は戦略的に最も有利な方法で攻めてくる、ということになります。ここで悲しいのは、自分だけが合理的なのではない、ではなくて、自分だけが合理的でない、ということなのですね。そうなんです。相手は世界は戦略は合理的であるにもかかわらず、私は合理的ではないのです。そこがつまり、みんなを幸せにして誰かを不幸にする、その誰かというのは私に他ならないということです。ゲーム理論は実践されない、ということなのです。

いや、厳密に言うと、ゲーム理論は、理論抜きでは実践されない、ということです。そこに救いを見出したいです。たぶん数学とか経済学とか囚人とかをもっと勉強すれば、実践されうるのではないかと思うのです。というのはつまりルールだから。合理的ではない人でも、ルールを適用することはできるはずです。赤信号を渡っては行けない理由を知らなくても赤信号を渡らないのと同じです。道路交通法に書いてあるからです。てなわけで、もう少し読んでみようかなと思いつつ、書店の専門棚を前に頭を抱えるのです、無理だ。何かもう、数式が無理。と拒絶している時点で悲しい実学。

道具としての感情

9月 27th, 2008 § 0 comments § permalink

読んだことがない人などこの世には存在しない人気作家の直木賞受賞作。3年前の作品が再び脚光を浴び始めたのは、文庫化+映画化だからなのですね。原作ものの映画といえば気になるのはキャスティング。湯川役は佐野史郎確定として、石神とか草薙とかは誰がやるのでしょうか。誰でもいいような気がします。というのは地味。地味すぎる。

元ホステスで現弁当屋店員の女とその娘、彼女らの隣人であり女に思いを寄せる高校教師。犯人なんですよ。この三人が。これを地味といわずして、何を地味とすればよいのか、私にはわかりません。実際地味なんです。予想どおり地味なんです。でも、私は泣きました。純愛とか数学とかとは無関係に泣きました。そして、断言できます。映画では泣けません。これはもう絶対に、活字でしか揺さぶられない。以下、ネタバレですが、内容には一切触れられませんし短いです。

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私が満足ならそれでいい

9月 14th, 2008 § 0 comments § permalink

iPhone向けのサイトを試験的に作成してみたのですが、存外いい具合に仕上がったので、全方面的に適用しました。そもそもiPhoneはフルブラウジング可能でありますゆえ、ちょっとした修正でかなり見やすくなります。ついでにこういったものまで埋め込んでみたりして。うれしいのは私だけだったりして。

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えぇ実用性は皆無です。

困難な装置

6月 16th, 2008 § 0 comments § permalink

小説の読者は、その小説の展開を予想(期待)する。付箋のページを追うだけで、読者がどのような展開を予想(期待)したかがわかる。大変よくわかる。どのあたりで裏切られたかもわかる(たいていの場合は裏切られる)。読者の欲望に忠実であることが小説に求められるとすると、付箋を辿り、剥がしながら再読することによってしか、今回は感想を書くことができない。

ミシェルとブリュノは異父兄弟だった。この二人を中心に物語は展開する。ブリュノ寄りに物語が展開することを私は期待した。

ミシェルは不思議な男の子だった。サッカーのことも、流行歌の歌手のことも何も知らない。クラスの嫌われ者だったわけではない。口をきく相手は何人かいた。しかしそれはごく限られたつきあいだった。アナベルの前に、ミシェルの家に誰かクラスメートが来たことは一度もなかった。ミシェルは一人で考え事をしたり夢想にふけったりするのに慣れていた。ガールフレンドがそばにいることにも、徐々に慣れていった。

この時点で私はミシェルをうまく思い描けなかった。まだ70ページ目だったが、感情移入を放棄した。

ミシェルがダメならブリュノしかないわけだが、恥ずかしいことを告白すると(と予防線を張って告白すると)、私はもう少しのところでブリュノになりそこねた。あるいはならずにすんだ。たぶん、私ぐらいの年代で、日本人で、男性で、ブリュノに肩入れできる人は多い、のだろう、と思いたい自分が少し、疎ましい。

ブリュノはこの恐るべき幸福に浸された数秒間のことを、何度も繰り返し思い出すだろう。カトリーヌ・イェンサンがそっと手を押しのけた瞬間のことも思い返すだろう。

ここでミスリードされた。というよりも、自ら進んで誤った道に踏み込んだ。ここは70年代初頭のフランスだったのだ。ゼロ年代の日本ではなく。ゼロ年代の日本だったら、問題は異なる様相を見せる。

以下はもう本当に文字通りの不審紙。

若いころミシェルは苦しみによって人間はさらなる威厳を得るのだと信じていた。だが今となっては間違いだったと認めざるをえない。人間にさらなる威厳を与えるもの、それはテレビなのだった。

なんでテレビが出てくるの?ポピュリズムけつくらえ?

ブリュノはリラックスしてなりゆきにまかせよう、<ロックン・ロール>だと心に決めた。

<ロックン・ロール>か。<ロックン・ロール>なのか。

セックスは、ひとたび生殖から切り離されたなら、快楽原則としてではなくナルシシズム的な差異化の原理として存続するということが彼には理解できなかった。富への欲望に関しても同じことさ。

これってフランス人だけなんじゃないのー、って思ったんだけど、どうもそうではないらしく、ただ、どうもそうではないらしいというようなことを書くとなんだか嫌らしい。というのは競争の埒外にあることによる優越性というか、つまりいうところの、すごい、めんどくさい。そう。めんどうくさい。めんどうくさいがゆえの。性愛による(90年代)、あるいは消費による(80年代)自己実現って話になるのかな。そういうもので実現するのは幸せなのだと思うけど、そういうものではなく実現する自己もあるし、そもそも実現するだけが自己ではなく、いやもっと言ってよければ自己なんてものは近代という架空の世紀が吐き続けた嘘なんだから。それさえ分かってたら、あぁいう痛ましい事件は起きなかったはずなんだ。

ブリュノを一人の個人と考えることができるだろうか?内臓の腐敗は彼のものであり、肉体的衰えと死を、彼は一人の個人として知ることになるだろう。だがその快楽主義的人生観、そして意識と欲望を構造化する力の場は、彼のジェネレーションに固有のものだった。…ブリュノは一人の個人とみなされうるとしても、別の視点に立つならば、ある歴史的展開の受動的要素にすぎないともいえるのだった。彼の抱く動機、価値、欲望。そのいずれもが、同時代人に対し彼をいささかも差異化するものではなかった。

ブリュノがそういう種類の差異化を求めているようには私には思えなかった。ブリュノはブリュノにふさわしく性愛に対する欲望に素直で、素直であるがゆえにもてあましていただけなのではないか。満たされないことへの苦悩が見えてこないのである。カトリーヌ・イェンサンに手を押しのけられた瞬間でさえも彼は、不満足ではなかったのではないか。

土手の草は焦げてほとんど白くなっていた。ブナの枝がかぶさる下を、濃い緑の川の水が延々とうねりながら流れていった。外界には固有の法があったが、それは人間の従う法ではなかった。

これがフランスの小説なのだと思うと胃が重い。フランスというのはもっと、ルールへの忠誠のみで成り立っているのではなかったか。こんな映画みたいなフランスは読みたくなかった。鯖はすごく美味しいんだけど、食べて何時間ももたれる日曜の夜、そんな感じのフランスだった。勝手に読めと、突き放された気分のフランスだった。ロブ=グリエと同じ学校の出身か。人間ってほんとうに、めんどうくさい生き物ですね。

これだから古典は怖い

5月 20th, 2008 § 0 comments § permalink

ノックスの十戒に足りないと私が思うのは「犯人は小賢しく」という項目です。これは「現代版」十戒という意味ではなく、あくまでも当時のノックスに、自らの十戒に加えてほしい。十一になるのは困るということであれば、「中国人禁止」か「ワトソンちょっと馬鹿」の項目を削ればいいでしょう。

という前置きを置いといて、あぁもうびっくりしましたよ。これ、他の作家が書いてたら間違いなく代表作ですよ。完全に油断したし、よもやこれほどまでに全力でフーダニットだとは、予想だにしなかった。そう、予想だにしなかった。

16年前の画家毒殺事件。犯人は妻。有罪判決懲役刑。そして、妻獄中死。なんだけども、妻は娘に「私は犯人ではない」という遺書を残していた。娘からの依頼を受け、ポアロ登場。

大昔の解決済み事件なので、手掛かりは関係者たちの「信用できない」証言しかありません。無理。その時点で無理。そしてご丁寧にも、その関係者たちに「信用できない」手記まで提出させるのです。カロリンに好意的な人も敵意的な人もみんながみんな、カロリンがやったと思ってるのですよ。

ここからネタバレですので、まだの人は絶対に読まないでください。人生の大いなる損失ですので。本当はもう、こうやって感想書いて公開していること自体がネタバレになっちゃうんですよねミステリは。

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リア充のリア充による

2月 10th, 2008 § 0 comments § permalink

非リア充のための青春ミステリ。

アマゾンの「商品の説明」(ノベルス版上巻)にはこう書かれています。

出版社/著者からの内容紹介
「あの頃の純粋な気持ちとさわやかな感動を胸に届けてくれました」withモデル森 絵里香
第31回メフィスト賞受賞!感動の長編傑作!
ある雪の日、学校に閉じ込められた男女8人の高校生。どうしても開かない玄関の扉、そして他には誰も登校してこない、時が止まった校舎。不可解な現象の謎を追ううちに彼らは2ヵ月前に起きた学園祭での自殺事件を思い出す。しかし8人は死んだ級友(クラスメート)の名前が思い出せない。死んだのは誰!?誰もが過ぎる青春という一時代をリアルに切なく描いた長編傑作

これがすでにミスリード。偽装です。

「誰もが過ぎる青春という一時代をリアルに切なく描いた」。リアルかも知れん。切ないかも知れん。でも、「誰もが過ぎる青春という一時代」を描いてはいない。描いてはいないがゆえに、謎は魅力的なのである。

リア充の中で一体誰が死んでいるのか、換言すれば、作者である「辻村深月」氏(「辻」の「辶」は点二つ)に殺されてしまったのか、という屈折した興味は、非リア充にしか持ちえないものだろう。そもそもリア充がリア充とか非リアとかを問題にすることはない。

この動機面での謎が推進力となって小説は進む。リア充にはわかるまいて。

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