復習

8月 26th, 2006 § 0 comments § permalink

自分だったらアラブ人を撃つか、という問。撃つ、と回答する。撃つ他ない。撃たない、自分には撃てない、と回答したいところだが、やはり撃ってしまうだろう。4〜5発は撃つだろう。もしかすると撃ち方がわからないかも知れない。

太陽が出ていなかったらどうか。太陽が出ていなかったら撃たない。

アラブ人でなかったらどうか。アラブ人でなくても撃つ。私には植民地の問題は関係ない。

母さんが死んでいなかったらどうか。母さんが死んでいなくても撃つ。母さんが関係するのは裁判であり、撃つことには関係ない。

母さんを埋葬した日と同じ太陽だったから撃ったか。同じ太陽でなくても撃った。太陽であれば撃った。

太陽のせい太陽のせい言うから不条理に思えるけど、正確には、

太陽が照った→アラブ人がナイフをかざした→刃が陽光を反射し、光がムルソーの視力を奪った→だから撃った

のである。これだったら、ムルソーでなくても撃つよ。4発撃つかはわからないけど撃つ。

感情移入できる読者はすでによそもので、よそもの同士友だちになることは考えにくい。ムルソーに恩赦があって死刑を免れたらいいと期待するのは構わないけど、期待させるようなことを書くのはどうかと思う。

司祭の憎まれ役ぶりに感謝という発想は素晴らしいと思う。この司祭にはむかついてむかついて、むかつきーと叫びながら握った右のこぶしを突き上げることしかできなかったから。私には。ムルソーが興奮するのを見たかったわけじゃないけど、見たかった人もいるのだろう。

あぁ、でも。『よそもの』を読んで、「自分はよそものではない」と思える人間は、一体どんな人間なのかと思うよ。こんなことを書きたくはないけど、そんな人間がいたら奇異の目で見る。たぶんそんな人間は私のことを奇異の目で見るだろうから。一方的に見られるのはつらいから。

人間・世界・男性/女性

6月 25th, 2006 § 0 comments § permalink

「SFとミセス・ブラウン」。これはたぶん日本では「ミステリとミセス・ブラウン」と置き換えられ、かつて新本格批判に用いられたのでしょう。すなわち「人間が書けてない」。この「人間が書けていない」で、SFのステロタイプが批判されます。確かに「売れればいい」式の商業主義を擁護する必要はないとは思いますが(擁護しなくても生き延びるので)、あえて「人間を書かない」小説が成立するのかという追究も、力量のある人には可能なのではないでしょうか。そもそも「小説=人間を書くもの」という定義があるのなら、まったく違うものを作り出してもかまわない。

ファンタジーはこの世界について書かれたものではありません。別の世界の物語です。つまり、別の世界が構築されなければなりません。にもかかわらず、本書で繰り返し主張されるのは「世界はすでにある。そこに住む人たちの言葉に耳を傾けよ」ということです。「マニア好みの設定資料集を編む暇があったら、そこにある世界に息づく人々の生き様を描け」ということです。なるほど。でもね。やっぱり素人は、どこにあるのよそんな世界、と思っちゃうのです。あなたの頭の中にあるその世界は、どこからやってきたのですかと、問うてしまうのです。巧みな人は、そのへんを答えてくれませんね。すっとぼけかたも一流です。「考えちゃダメ」。

「性は必要か」では、『闇の左手』が引かれつつ、人間を書くことの新たな試みが提示されます。少なくとも私にはそう思えました。『闇の左手』はたぶん、セックスを無効にすればジェンダーも無効になるか、という実験なのではないでしょうか。憶測ですが。『闇の左手』はぜひとも読んでみたいと思いました。私自身はセックスとジェンダーには緩い相関がある、のでは、なかろうか、ということぐらいしかわかりません。これに関連して、私の恥を晒しておきます。

そう、私はアーシュラ・K.ル=グウィンの作品を読んだことがないにもかかわらず、彼女を男性だと思い込んでいたのです。これは偏見以外の何ものでもありません。つまり私には、彼女のファーストネームをイニシャルにするという「検閲」を行った編集者を、批難する資格はないわけです。

恥かきついでにもうひとつ。総称代名詞の話です。「英語における総称代名詞は【he】なので、両性具有であるゲセン人も【he】と呼ばざるをえず、どうしても男性のように見えてしまう。日本語には【彼/彼女】を表す(つまり性別を問わずに使える)代名詞があるそうで、うらやましい」というようなことが書かれているのですが、これって、何のことでしょう? そもそも、日本語における「主語」って? ハッ!

「わたし」の読み方

3月 5th, 2006 § 0 comments § permalink

カフカの『断食芸人』を3回の授業で読み解くという趣向です。残念ながら私は3回のうちの1回目の、そのまた十分の一も理解せずに読んでいたことが判明しました(例えば断食芸がなぜ30日でも60日でもなく40日間なのか、とか。そういえば『四十日』をいつか読みましたね)。それはそれで貴重な読書だったわけですが、本書に中学生や高校生の頃出会っていれば、また違った読み方もできたのではないかと思います。まぁ一回限りが読書ではありませんし、何度でも読みたいカフカということで、それこそ飽きもせずに粘着して読み続ければいいのでしょう。

私が今回驚いたのは、私がこれまでカフカの作品に対して「寓話的」な何かを一切感じていなかった、ということです。断食が芸だったり毒虫になったり言われなく逮捕されたりアメリカに追放されたり測量技師として城に呼ばれるも一向にたどりつける気がしなかったりアリジゴクのような処刑機械で処刑されたり侵入に怯えたりするようなことは、現実には起こりません。可能性は微塵もありません。しかし、これらの作品をリアリズム小説であるかのように読んでいたという事実に、カフカの世界認識に対する圧倒的な迫力を覚えるのです。

カフカのこの迫力は、「アルキメデスの点」から世界をひっくり返そうとせんがためであると著者は指摘します。恐怖は幽霊そのものではなく、幽霊が出現する原因にある、というのはカフカ自身の言。『変身』を読んで「毒虫? 何それ? ありえねー」という感想を抱く人がこの世に存在しないのも、毒虫自体ではなく、毒虫に変身する原因にリアリティがあるからなのだと。ヨーゼフ・Kは、犬のようにくたばるべくして、犬のようにくたばるわけです。

本書標題にもあるように、カフカを読むというのは「わたし」を読むということにほかなりません。これは誰しもが必ず通過する読書体験で、その体験をより幸福なものにしてくれるのが本書であるといえましょう。私はといえば若干不幸ではありましたが、それでもカフカ以後の世界に生まれてきたことを、ただただ神に感謝するのです。

内容より文章

8月 9th, 2004 § 0 comments § permalink

連続斎藤美奈子。踊ったか踊られたかは別にして、文章に信頼が置ける。例えば、ある環境関係の本に付された立花隆の推薦文に対する突っ込み。<…>部分は立花隆。

<本書を読めば、この問題がいまや環境問題最大の問題となっており、すでに各国で次々と対策が講じられはじめているということがわかり、日本はいったいどうなっているのだと叫びたくなるだろう>。
この問題がいまや環境問題最大の問題……。すごい問題意識の高さだな。

(『読者は踊る』p.487)

むしろ立花隆はいったいどうなっているのだと叫びたくなる。まぁ今ならAトックが叱責してくれるのであろうこの程度のことなら。

『紅一点論』。「性差」(性差そのものではなく「性差」の扱われ方)について論じる時困難に思えるのが己の性で、所詮は「男の子の国」の住人でしかない私が「結局のところ」などと結論めいたことを吐こうとしても、それはどうしても「男の子の国」のコードに基づいてしまう。そこから自由になることはできんのかね、と悩んでいる時点ですでに捕われているわけで、性差なんてほんとは意味ないんだけど、意味ないんだけどなどとごにょごにょ言ってる時点でダメ男子なわけで、猛省。その意味で、この本の持つ緩さは性差を無効にする試みなのではなかろうか、と勘ぐってみたりもする。

それにしても、この世は性差にあふれていますよね。出生率の低下で嫌な感じの風潮だ。逃げる準備をせなならんのか?重たいなぁ。眠たいし。

世代の終わり

6月 1st, 2004 § 5 comments § permalink

大塚英志関連2冊終わり。思ったのは、自分には団塊ジュニア(この呼び方も嫌がらせのようにださいな。ある意味ハラスメントだな。というわけで以下、「D・A・N・K・A・I・Jr♡」とする)としての自覚が欠けているということ。自覚を欠いてはいるが、D・A・N・K・A・I・Jr♡であるという事実は動かせないということ。というわけで、自分のD・A・N・K・A・I・Jr♡としての特徴を抽出し列挙してみる。

» Read the rest of this entry «

世界の終わりはどこで待たれるか

5月 21st, 2004 § 0 comments § permalink

「世界の終わりの終わり」が終わりましたが、中途半端な印象。終わるにせよ終わらないにせよ、もう少し分かりやすいカタルシスを期待した。「おにいちゃん」?が結局よく分からない。大塚英志による編集後記にもあったけど、『ファウスト』まわりでいくのかそうでないのか、僕は正直なところ、無理に「僕たちの作家」である必要はないと思う。というのは矛盾しているか

団塊ジュニアと言われても

5月 17th, 2004 § 0 comments § permalink

「くびれの世代による上野千鶴子論」。というよりは、「くびれの世代によるくびれの世代」(何だそりゃ)。vol.2でも思ったのだが、なぜそこまで己の世代を追い込まなければならないのか。危機意識だろうか。ざっくりまとめると、くびれの世代(団塊と団塊ジュニアの狭間)の特徴として、バブルで甘い汁を吸ってしまった、「世代」というものに捕われすぎている、論拠の薄いことを思い込みで主張してしまう、というようなことが挙げられているのだが、どれも「くびれ世代」の特徴というよりは、「世代に関わらずそういう人もいる」ように思えるのだが。自己言及ゆえにどうしても論理的な循環に陥りがちで、世代批判としては屈折した構造を持っている。どこまで後退して判断すればいいのか分からない。これも、いかに「戦時下」に語るか、という文脈で読まないといけないのかな。それはそうと、上野千鶴子論はどこへ?

現実を凝視する

5月 10th, 2004 § 0 comments § permalink

新現実のvol.3が出てしまったので、あわててvol.2を読んだり読まなかったり読んだふり。ようやく現実に追いついてきた。最新型の鯖書房です。それはさておき、vol.3は中上健次です。中上健次なのです。「フィギュアはついてません」。意味が分からない。中上健次にフィギュアがついてくるはずなかろう。中上健次なんだから。枯木灘なんだから。ところで、この、ちびっ子は誰ですか。中上健次ですか。いや、ちびっ子が中上健次のはずはなかろう。中上健次なんだから。地の果て 至上の時なんだから。中上健次とちびっ子は異なるものであろう。別人であろう。つまり、何かの間違いであろう。私はといえば町でいちばん大きい書店で新現実を手に取って、震える手に取って、しかし、レジへ持っていくことができなかった。この硬派な私が中上健次として持参した書籍にちびっ子が載っているというこの事実を、書店員は受け入れられないだろう。拒むであろう。新しい現実をリアルな現実として認識できないであろう。否否否万遍否!だから私は会計を済ますことができなかった。この平和な町を、善良な市民を恐慌の渦に巻き込まないために、そう、私は私を生贄とし、犠牲を最小限で食い止めるために代金引き換えを頼んだのだ。うちには配達しないでください。電話しないでください。郵便局留めにしてください。

» Read the rest of this entry «

件のメールサービスについて

5月 5th, 2004 § 0 comments § permalink

梅田望夫『コンピュータは「悪」をなさない、と彼らは言う』。グーグルのGメールに関するコラム。メールの内容をグーグル技術で解析して、内容にあった広告を挿入する、というのがGメールの企みらしいが、これはつまり「ハガキの内容を盗み見てチラシをポスティングする郵便配達夫」ってことだろう。かなり厳しいよなぁ。サイトとメールではまったく意味が違うし、コンピュータだろうが人間だろうが見えないところでやられる以上、気持ち悪さは変わらんだろう。ていうかそういうサービスどうでしょう郵政公社。

でもよくよく考えると、スパムメールのフィルタリングサービスも同様の技術でもって行われているわけで、それはオーケーで広告はダメっていう心理は、一体何なのだろうか。どこまで内容に踏み込んで解析されるか、っていう程度の問題でしかないのだろうか。スパムメールを削除するフィルタリングって、ダイレクトメールを配達せずに捨ててしまう郵便配達夫ってこと?こんなの配らなくても大丈夫だろう、てな具合で。ていうかそういうサービスどうでしょう郵政公社。

ちなみにGメールをグーグルで検索するとこんな結果になります。世界はグーグルでできているというお話でした。

ギャルゲー

1月 4th, 2004 § 0 comments § permalink

新現実VOL.2をぼちぼちと。どこで詰まっているのかというとササキバラ・ゴウの「傷つける性団塊の世代からおたく世代へ」であり、私は団塊世代でもおたく世代でもないしいわゆる団塊ジュニアのベビーブームでありギャルゲーといえばプレステのときメモぐらいしか知らないので正直なところピンとこないのであるが、ここらへんの問題は避けて通れないところであると認識しておりますゆえに、ここらへんの問題がどこらへんの問題なのかも含めていずれ確認したいと思います。今日のところは逃げます。

Where Am I?

You are currently browsing the 評論/随筆 category at saba-books.