遠すぎるリアリズム

2月 4th, 2010 § 0 comments § permalink

ある日の午後、操縦係のジプシーとうれしそうに手を振る数人の村の子供たちを乗せて、空飛ぶ魔法の絨毯が工房の窓をかすめた。

というようなことがしれっと書いてあって何ら違和感のないあたりが、リアリティだと思うのです。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはそちらの方を見向きもしないで、こういいます。

「せいぜい楽しませておけ。わしらは、あんなみっともないベッドカバーよりもっと科学的なやり方で、やつらよりうまく飛んでみせるから」

ここでホセ・アルカディオ・ブエンディアが論点としているのは「科学ー非科学」の対立ではありません。「かっこいいーかっこわるい」という価値観の問題なのです。ホセ・アルカディオ・ブエンディアにとって、科学はかっこいいがゆえに正当なのです。でも子供たちにはそんなの関係ない。空飛べりゃ何でもいいんです。魔術が飛んで科学が飛べないのであれば、科学に用はないのです。

そうです。マジックリアリズムのヒントがここにあります。科学は無用なのです。代替物としての魔術もおそらく必須条件ではない。死なないアウレリャノ・ブエンディア大佐も、飛んでった小町娘のレメディオスも魔術じゃない。じゃあ何か、ってそれがわかればノーベル賞なのでしょう。

まだ、すこし時間がある

11月 19th, 2009 § 0 comments § permalink

まずはアントニオ・タブッキの「新作」が出版されたことに万歳。そしてテーマはたぶん「死」。寓話はエピローグから始まり、推定主人公ガリバルドは額に銃弾を受ける。「国王、くたばれ!」

続く第一章冒頭でガリバルド(もともとの名前はヴォルトゥルノ。父の死後ガリバルドを名乗る)は父ガリバルドの死に臨む。死とは何か、よくわからないと思っているところで、父ガリバルドが棺桶から起き上がり一晩中、人生とは何かについて息子ガリバルドに滔々と語る。そして死ぬ。死はやはりよくわからないものとして残される。

ちょっとしたヒントは示される。ガリバルド(もともとの名前はヴォルトゥルノ。父の死後ガリバルドを名乗る)の伯父にあたるヴォルトゥルノ(ガリバルドの兄)が教えてくれる。

ある日、クワルトがやってきて、栗毛の馬からおりもせず、戸口から顔をのぞかせた。ヴォルトゥルノは今まで感じたことのない不安を感じた。それは死んだ後に感じるはずの、いやしようのないノスタルジーだった。

死に対する恐れというのはこのノスタルジーなのではないか。われわれは生まれながらに臨死している。それは生きているものはいつか死ぬという死の先取りのみならず、生まれる前は死んでいた、つまり生に先立つ死の記憶をも意味するのではないか。生の反対は死ではない。われわれの生にはすでに幾分かの死が含まれており、生は、生と死の合い挽きミンチなのだ。だからフランス人は言うのだ。さよならをいうのは少しのあいだ死ぬことだ。

あれ?逆か。生れた後に感じるはずのノスタルジーだな、これじゃ。まぁ同じことか。ヴォルトゥルノもエスペリアに、結末からはじまる逆さまの話を聞かせていたというし。

後日談直前の最終章は「ひとの死は、金で買えるものじゃない」。当たり前です。肉屋で「挽肉の肉だけ売ってくれ」って言っても無理ですしね。何が入っているのか、知れたものでもないですし。

期待されることは必ず起こる

4月 8th, 2009 § 0 comments § permalink

ナイフ投げ師ときいただけで、これはもう、刺さるしかないのである。

ナイフ投げ師ヘンシュが私たちの町に立ちよって土曜の晩八時にただ一度だけ公演を行うと聞いたとき、私たちはどまどい、自分の気持ちもうまくつかめなかった。

嘘である。ナイフは刺さるのである。それ以外はありえない。欲望ですらない。事実が、ただ眼前に提示されているのである。その唯一の期待にミウハウザーはいかに応えるか。ナイフ投げる、刺さる、ミルハウザー。これに優る快楽が短編小説に見つかるか?

同様に、気球飛行ときいただけで、飛び降りたくなる。パラダイス・パークときいただけで地獄である。夜の姉妹団ときいただけで、いかがわしい秘密に塗れた少女たちの儀式でしかないのである。

夢ではない、偽ではない虚でもない。魔術という名の現実に、圧倒的な迫力に、ただただ飲み込まれるばかりなのである。

追記的に書いておくと、「ある訪問」はどうしようもなく遣る瀬無いよ。こういう類いの幻滅というかおぞましさというかある種の愛情は年を取れば取るほど薄まってはいくもののなくなることはない。たぶん。時々思い出す。で、「なんでそうなるのかな」と口に出してみたくなる。

めんどくさい

4月 4th, 2009 § 0 comments § permalink

トロイの馬とかもう本当にうざったい。こういう馬いるよなぁいるいると思わせるあたりが堪え難い。「さあさあ、いいですか。有名な町といったら? ほらっ、ほらっ」…本気で勘弁してほしい。

アリスがフランスに行くとかもう考えられない。不思議の国にでも行っときゃいいのに、よりにもよってフランス!そしてnnnnnnnnn!そりゃそうだろうよ。そうなるだろうよ。

揚げ句の果てに「夢の話をたっぷりと」と。「当然ながらこれらの夢は…」などと得意満面で。お前は誰だ。何様のつもりだ。夢の話だとふざけるな。

そもそも、ウリポからしてが面倒くさいのだ。こんなことをいう。

シャルボニエ 処理が施されると、確かにシュルレアリスム的でしたね。

クノー ええ。しかしそのことには何の興味もありません。我々はシュルレアリスムを実践しているわけではないのですから。見かけはシュルレアリスム風かもしれませんが、用いた方法は違う。ここがとても重要な点です。

シュルレアリスムは属人的だ。ある程度の天才が自動記述するから、ある程度のすばらしい作品が生まれる。しかし、S+7法はそうではない。誰がやっても同じ結果になる。つまり、方法を正しく用いれば、そこそこの傑作が書ける。面倒くさい。非常に面倒くさい。だがこの面倒くささが、快楽なわけだ。コンピュータによる自動化などありえない。プチプチを雑巾しぼりで潰すようなものだ。辞書を引く面倒を喜びたい。いちいち満悦したい。こんなに面倒なものが遊戯であるはずがない。作業だ。ただただ反復する作業だ。凡人のために用意された手を動かす作業なのだ。

でも、結局ウリポは幾人かの天才と出会ってしまった。僥倖だといわざるをえない。

困難な装置

6月 16th, 2008 § 0 comments § permalink

小説の読者は、その小説の展開を予想(期待)する。付箋のページを追うだけで、読者がどのような展開を予想(期待)したかがわかる。大変よくわかる。どのあたりで裏切られたかもわかる(たいていの場合は裏切られる)。読者の欲望に忠実であることが小説に求められるとすると、付箋を辿り、剥がしながら再読することによってしか、今回は感想を書くことができない。

ミシェルとブリュノは異父兄弟だった。この二人を中心に物語は展開する。ブリュノ寄りに物語が展開することを私は期待した。

ミシェルは不思議な男の子だった。サッカーのことも、流行歌の歌手のことも何も知らない。クラスの嫌われ者だったわけではない。口をきく相手は何人かいた。しかしそれはごく限られたつきあいだった。アナベルの前に、ミシェルの家に誰かクラスメートが来たことは一度もなかった。ミシェルは一人で考え事をしたり夢想にふけったりするのに慣れていた。ガールフレンドがそばにいることにも、徐々に慣れていった。

この時点で私はミシェルをうまく思い描けなかった。まだ70ページ目だったが、感情移入を放棄した。

ミシェルがダメならブリュノしかないわけだが、恥ずかしいことを告白すると(と予防線を張って告白すると)、私はもう少しのところでブリュノになりそこねた。あるいはならずにすんだ。たぶん、私ぐらいの年代で、日本人で、男性で、ブリュノに肩入れできる人は多い、のだろう、と思いたい自分が少し、疎ましい。

ブリュノはこの恐るべき幸福に浸された数秒間のことを、何度も繰り返し思い出すだろう。カトリーヌ・イェンサンがそっと手を押しのけた瞬間のことも思い返すだろう。

ここでミスリードされた。というよりも、自ら進んで誤った道に踏み込んだ。ここは70年代初頭のフランスだったのだ。ゼロ年代の日本ではなく。ゼロ年代の日本だったら、問題は異なる様相を見せる。

以下はもう本当に文字通りの不審紙。

若いころミシェルは苦しみによって人間はさらなる威厳を得るのだと信じていた。だが今となっては間違いだったと認めざるをえない。人間にさらなる威厳を与えるもの、それはテレビなのだった。

なんでテレビが出てくるの?ポピュリズムけつくらえ?

ブリュノはリラックスしてなりゆきにまかせよう、<ロックン・ロール>だと心に決めた。

<ロックン・ロール>か。<ロックン・ロール>なのか。

セックスは、ひとたび生殖から切り離されたなら、快楽原則としてではなくナルシシズム的な差異化の原理として存続するということが彼には理解できなかった。富への欲望に関しても同じことさ。

これってフランス人だけなんじゃないのー、って思ったんだけど、どうもそうではないらしく、ただ、どうもそうではないらしいというようなことを書くとなんだか嫌らしい。というのは競争の埒外にあることによる優越性というか、つまりいうところの、すごい、めんどくさい。そう。めんどうくさい。めんどうくさいがゆえの。性愛による(90年代)、あるいは消費による(80年代)自己実現って話になるのかな。そういうもので実現するのは幸せなのだと思うけど、そういうものではなく実現する自己もあるし、そもそも実現するだけが自己ではなく、いやもっと言ってよければ自己なんてものは近代という架空の世紀が吐き続けた嘘なんだから。それさえ分かってたら、あぁいう痛ましい事件は起きなかったはずなんだ。

ブリュノを一人の個人と考えることができるだろうか?内臓の腐敗は彼のものであり、肉体的衰えと死を、彼は一人の個人として知ることになるだろう。だがその快楽主義的人生観、そして意識と欲望を構造化する力の場は、彼のジェネレーションに固有のものだった。…ブリュノは一人の個人とみなされうるとしても、別の視点に立つならば、ある歴史的展開の受動的要素にすぎないともいえるのだった。彼の抱く動機、価値、欲望。そのいずれもが、同時代人に対し彼をいささかも差異化するものではなかった。

ブリュノがそういう種類の差異化を求めているようには私には思えなかった。ブリュノはブリュノにふさわしく性愛に対する欲望に素直で、素直であるがゆえにもてあましていただけなのではないか。満たされないことへの苦悩が見えてこないのである。カトリーヌ・イェンサンに手を押しのけられた瞬間でさえも彼は、不満足ではなかったのではないか。

土手の草は焦げてほとんど白くなっていた。ブナの枝がかぶさる下を、濃い緑の川の水が延々とうねりながら流れていった。外界には固有の法があったが、それは人間の従う法ではなかった。

これがフランスの小説なのだと思うと胃が重い。フランスというのはもっと、ルールへの忠誠のみで成り立っているのではなかったか。こんな映画みたいなフランスは読みたくなかった。鯖はすごく美味しいんだけど、食べて何時間ももたれる日曜の夜、そんな感じのフランスだった。勝手に読めと、突き放された気分のフランスだった。ロブ=グリエと同じ学校の出身か。人間ってほんとうに、めんどうくさい生き物ですね。

うれしがり

2月 28th, 2007 § 0 comments § permalink

何が好きってペレックの、こんな種類のうれしがりだ。傍から見て微笑ましい、というよりは、おおお、お前もか、といった種類の。20世紀フランスの大作家を捕まえて、「お前もか」もないのですが、この気持ちは誰もが容易に理解しうるものでしょう。

ヘルマン・ラフケという醸造業で成功した美術愛好家に関する話。《美術愛好家の陳列室》というのはラフケが、ドイツ系アメリカ人画家ハインリッヒ・キュルツに描かせた絵で、ラフケのコレクションを収めたギャラリーが描かれています。ラフケの集めたヨーロッパの名画やアメリカの新興画など、百を越える絵画が、一定の割合で縮小され細密に再現されているのですが、それだけではない。この絵はこの絵自身をも含んでいる。つまり、《美術愛好家の陳列室》には《美術愛好家の陳列室》も描かれているのです。当然その画中画には百を越えるラフケコレクションが描き込まれていて、そこにもまた《美術愛好家の陳列室》が…。

ヘルマン・ラフケが亡くなった時に、この入れ子構造は完成します。遺書の細かい指示どおりに、ラフケの遺体は剥製にされ、キュルツの絵と同じガウンを着せられ、同じポーズでひじ掛け椅子に座らされます。そして、遺体は地下室へ。その地下室にはもちろん《美術愛好家の陳列室》とそこに描かれているラフケ・コレクションが絵と同じように陳列されているわけです。そのまま地下室は封鎖され、《美術愛好家の陳列室》は閉じられます。

と、ここで終わってもいいのです。ここで終わらないのがペレックです。いや、むしろ、ここから始まるのがジョルジュ・ペレックなのです。

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遠すぎる主人公たち

11月 2nd, 2006 § 0 comments § permalink

これは、理解しがたい。主人公は老人。タイトルが『わが悲しき娼婦たちの思い出』で、のっけから、

満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。

ですよ。感情移入は早々に放棄して、あぁこういうひともいるんだなという視点です。

そして、二十年間音信の途絶えていた娼家の女将、ローサ・カバルカスに連絡を取り、十四歳の少女デルガディーナ(仮名、というか主人公が勝手にそう呼んでいる)を紹介されます。結末はぜひ読んでいただきたいのですが、これは、リアルなのだろうか。問わずにはいられません。これは、リアルなのだろうか。

少女の気持ちは、ローサ・カバルカスを通じて主人公に伝えられます。少女の生の言葉は背中や唇や自転車にしか宿りません。だから、信じるも信じないも読者次第なのですが、信じられるとすればそれは老人か少女かどちらかに対する信仰以外にないと思われます。残念ながら私には信じられませんでした。こういうことはありえないと。自分が老人になったとき、こういうことはありえない、と。ただ、ありえないながらも、何らかの変形リアリズムとして成立してしまうのが、ガルシア=マルケスの筆力なのでしょう、か。もう、あと200ページ読みたいと思いました。

あるいは

9月 30th, 2006 § 0 comments § permalink

こういうものがまだまだ眠っているから、人類を愛す。ボンテンペルリを読んだ時にも思った。イタリアの児童文学者だそうで、初めてかと思ったら、『チポリーノの冒険』を読んだことがある。いや、読んだことがあるというよりも幼年期に愛読していた。再会なわけだ。

「チヴィタヴェッキアの郵便配達人」。タイムトリッパーもの。ピラミッドを二時間で建てる出鱈目な話なのだが、細かい部分が妙におかしい。

「どうだい、考えてくれたかい?」
「ええ、十九時三十分から十一時四十五分まで考えました。」

「ですが、ぼくは何もせずに時間を無駄にすることに慣れていないのです。この船は、ちっともエジプトに着く気配がないように思えます」
ところがどっこい、船はきちんとエジプトに着いた。

そのうち《コオロギ》は、エジプトのピラミッドの建設を手伝わされるために運ばれているという予感がした。案の定、到着した砂漠には、建設中のピラミッドがあった。

「ピアノ・ビルと消えたかかし」。ピアノを弾きながら平原をさすらうカウボーイ。どういう状況か想像してみてほしい。

白い馬にまたがって前をゆくのが、ビル。黒い馬にまたがって後ろをゆくのが、ピアノ。ビルとピアノ。ピアノとビル。そう、ピアノ・ビルだ。

言うに事欠いて「そう、ピアノ・ビルだ」か。

「ヴィーナスグリーンの瞳のミス・スペースユニバース」は、端的にいうと「シンデレラ」で、不遇の主人公、途中の展開から結末に至るまで、シンデレラそのものなのであるが、全然違う。シンデレラと全然違う。どこが違うのか判然としないにもかかわらず、もう何から何まで見事に違うのである。このあたりの「容赦なさ」が、ボンテンペルリを彷彿とさせるのかもしれない、イタリア人。

今後も「光文社古典新訳文庫」には期待ですね。本作のように、「なぜか翻訳されてない名著」をどしどし発掘してほしいです。その「なぜか」を想像してみるのもおもしろいですしね。

予習

8月 16th, 2006 § 0 comments § permalink

もう何年前に読んだのかわかりません。今回は予習のために再読してみました。

きょう、ママンが死んだ。

私の全体がこわばり、ピストルの上で手が引きつった。引き金はしなやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった。

『異邦人』の第一部で発生する事件はこの二つです。この二つを除けばムルソーは、海水浴にいったり映画をみたりデートしたり、ごくごく普通の生活を送っています。二つの事件とふだんの暮らしと、両者の不連続ゆえに、この作品は不条理であると言われます。より正確には、ムルソーの行動が不条理なのは構わないが、その不条理を描いた『異邦人』という小説は何だ? 何のつもりだ? ということになるのではないでしょうか。人の行動が不条理なのは自分というものを内省してみればわかることですから、それ自体はさほど不条理ではない。だけども好き好んでその不条理を、作品として表現するというのはかなり不条理、というよりも変態なのではないか。

というのが私の認識です。

第二部。「太陽のせい」は実はよくわからないのですが、裁判後の「御用司祭」との面会での切れっぷりは、論理的な一貫性が失われているどころか、宗教の持つある種の押しつけがましさを見事に捉えていて共感できましたよ。それでもやはり「今もなお幸福であることを悟」っているという境地に達することはできないですが。

というのが本日の限界です。もやがかかったように眠いです。本当は少しも眠くなんかないのですが、このへんで勘弁してください。次回解決篇っちうことで。

全裸で

3月 26th, 2006 § 0 comments § permalink

とにかく、全裸で。

宇宙からきたナメクジ状の生物が人間にとりつく。とりつかれた人間はナメクジに支配されるが、一見したところふつうの人間と変わりない。肩の辺りにとりつかれるので、若干猫背かなぁ、という程度。なので、とりつかれた人とそうでない人とを区別すべく、合衆国大統領は「上半身裸体計画」を布告する。その後の調査でナメクジは下半身にも隠れることが判明したため、「上半身裸体計画」は「日光浴計画」に切り替えられた。まぁ脱げ、話はそれからだ。というわけである。

と書くと、まるでユーモア小説みたいですが、実際ユーモア小説です。引用してみましょうか。どこでもいいのですがまぁ適当なところで。

われわれは、あらゆる戦線で敗北を重ねていた、全裸で。彼らと直接戦うには、彼らをどれだけ殺せるかという確信もないのに、わが国の都市を爆撃しなければならなかった、全裸で。われわれの最も欲していたのは、ナメクジを殺して人間は殺さない武器、あるいは人間を活動不能にするか殺さず意識不明にしておいて、そのあいだに人間だけを救い出すことを可能にするような武器だった、全裸で。

注:「全裸で」は引用者追記ですよ、念のため

がしかし、ただのユーモアで終わらないのがさすがはハインラインで、ここからはネタバレになりますのでご注意下さい。

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