ラッセル 幸福論

7月 15th, 2006 § 0 comments § permalink

幸せとはなんぞやを知らずとも、幸せな人は幸せなのであるからして、「幸福論」は野暮である。にもかかわらず、「幸福論」と銘打たれる言説は世に数多存在します。グーグルで幸福論アマゾンで幸福論、そして岩波文庫で幸福論。手始めにラッセルです。

第一部で「不幸の原因」が分析されます。その列挙は網羅的。「バイロン風の不幸」(初期状態としての不幸)「競争」「退屈と興奮」「疲れ」「ねたみ」「罪の意識」「被害妄想」「世評に対するおびえ」。この中のひとつにでも襲われることがあれば、人は不幸になりえます。すべてに襲われることがあれば、それはそれで喜劇であるのかも知れませんが、もちろん当人は不幸です。

第二部では第一部を踏まえ、「それでもなお幸福は可能か」が問われます。「熱意」「愛情」「家族」「仕事」「私心のない興味」「努力とあきらめ」(中庸)がその源泉です。結論的には「バランスのとれた人格と宇宙との調和」ってところですね。「バランスのとれた人格」ってのは重要で、単に「宇宙との調和」だと電波っぽくなってしまいます。

幸福「論」というよりも処世「術」。こうした方が生きやすいですよ、というような啓蒙書でした。そもそも「幸福論」なんて、「うまくいかない」「不幸だ」「何とかしたい」などと思ってる人が手に取るものなのでしょうし、そういう意味では、幸運を呼ぶスピリチュアルナントカとか、風水でつかむラッキー危機一髪とかいった類いのお手軽本よりは、手に取りやすいだけ幸せかも知れません。

で、例によって例のごとく本筋から外れたところに引っかかっていくわけです。幸福について書かれた第二部の「熱意」の章。例示としてなぜか「ソーセージ製造機」が登場します。

あるとき、ソーセージ製造機が二台あった。ブタをこの上もなくおいしいソーセージに変えるために作られた精巧な機械だった。そのうちの一台は、ブタへの熱意を持ちつづけ、無数のソーセージを製造した。もう一台は、言った。「ブタなんかどうってことなはないさ。私自身のしかけのほうが、どんなブタよりもずっとおもしろいし、すばらしい。」

自分自身の研究に夢中になりソーセージを作らなくなった機械は中身が空っぽになってしまった、という話で、引きこもるな、世界に目を向けよ、という主旨なのですが、ソーセージ製造機の擬人化って、もっと別の意味がこもってきませんか。ブタやソーセージ製造機を貶めるつもりはなくても、世界がブタで自分はソーセージ製造機ってのは鬱屈しそうです。他にいい喩えがなかったのかしら。ラッセルはイギリスの人かと思いましたが。

エチカ (下)

10月 23rd, 2005 § 0 comments § permalink

とはいえやはり1〜3部はほんの前菜、メインは人間の認識や知性、とりわけ自由の問題にあります。神様なんか誰も信じてないですからね。教会ですら信じてないですしね。本気なのはスピノザぐらいで。

好きなことを好きなようにやるのが自由、と思っていませんか。感情のおもむくまま、欲望の命ずるがままに振る舞うのが自由だと。

ちがいます。それは自由ではありません。なぜなら、感情や欲望に従属しているからです。感情や欲望の引いた線上をなぞらされているだけだからです。幸せだと感じるならそれはそれでたいへん結構なことですが、残念ながら自由ではないのです。

では、本当の自由とは何か。どうすればそこに到達することができるか。

…についてはネタバレになりますのでここでは触れません。ぜひ読んでください。かなりのボリュームですが、デザートは別腹ですからね。禁欲すりゃいいってもんじゃないって、スピノザも言ってますしね。

エチカ (上)

10月 15th, 2005 § 0 comments § permalink

神はありがたくない。

永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性からなっている実体 すなわち神が、ありがたいはずがない。神がありがたければ、この世界などないに等しい。神は在るのである。そのことをスピノザは第一部で証明する。さほど難しいことでもないし、落ち着いて考えれば当たり前のことなのだが、スピノザの方法はとても慎重で、おせっかいだ。誰にでもわかる。

神に感謝したり神を奉ったりするのは、神を貶めることだからやらない方がいい。やるのは勝手だが、勝手にやってほしい。そもそも神に何らかの目的があると考えること自体ナンセンスだ。神はただそれだけで完全なのであるから、完全度の低い中間物を介して得られた結果が神を満足させるはずがないのである。

あなたが拝むべきなのは神ではない。神を拝むくらいなら、路傍の石ころでも拝んでいた方が100倍マシである。もちろんあなたには、石ころよりも拝むべきものがあるのだろうが、それが何であるかは私は知らないし、たぶんスピノザも知らない。少なくともそれは神ではない、としか言えない。

いや、あなたが拝んでいるそれは、すでに神ではないから(むしろ石ころに近いだろう)、別に拝んでいても構わない。ただそれを神と呼ぶのは滑稽だ。人生において何ら支障はないだろうし、死んでから困るようなこともないだろうが、滑稽だ。石ころにも神が宿るというようないんちきユビキタスも、何だか安っぽいし好みではない(そんなことは聞いてない)。

スピノザが第一部をも含めてなぜ「倫理学」といったのか、よく考えてみるべきだ。神の存在証明は、人間の知性や感情、自由について述べるための方便ではない。それ自体「倫理学」であり、きわめて実践的なのである。

論理哲学論考

6月 26th, 2005 § 0 comments § permalink

思うに、無意味とナンセンスの違いをしっかり把握しておけば、かなり理解できるのではないかと。

無意味は例えばトートロジー(pならばp、かつ、qならばq)とか矛盾(pかつpではなく、qかつqではない)とかのことで、トートロジーと矛盾はそれ自体何も語らないことを示しています。というのも前者は可能な状況をすべて許容し(p、qが真だろうが偽だろうが恒に真)、後者はまったく許容しないからです(p、qが真だろうが偽だろうが恒に偽)。[4.461-4.462]

トートロジーは論理空間の全体を現実のためにゆずり、矛盾は論理空間から現実を完全に排除するため、現実を規定する上ではどちらも無意味ではありますが、ナンセンスではありません。ナンセンスは論理空間の向こう側にあります。 世界とは論理空間の中にある諸事実のこと、世界は諸事実の総体なのです。[4.463,序]

つまり「論理空間⊃世界 = 事実のすべて」ということになりますね。「世界として成立したもの + 成立しなかったもの」の外側にあるのがナンセンスなのです。訳注の例示を援用すると、「論理空間:富士山は地球上でいちばん高い」「世界:富士山は日本でいちばん高い」「ナンセンス:富士山は2で割り切れる」ってことになりますね。

なんだけど。富士山は2で割り切れうるんじゃないの? 富士山が「静岡と山梨の間にそびえる件の山」ってことは「世界」でいいと思うんだけど、富士山が「4である」ってのは「論理空間」じゃなくて? と思っちゃうのは「名」を誤解しているから? 富士山ってのはあくまでもアレそのもののことであり、富士山っていうシールのことではない? しっかり把握できぬ。

もうちょっといろいろ読んでみるか。ひとまず保留します。

いずれにせよ、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」ということは、言語が引いた限界線、その外側はナンセンス。世界がいかにあるかについては、たいした問題ではなく、世界があるというそのことが神秘なのです。だから、神、という意味での神が降臨することはありえず、また、神について語ることは、「神は神自身と1以外に約数を持たない」と語るのと同じぐらいナンセンスなのです。[6.432-7]

あぁでもやっぱり。最後にそれ(ヴィトゲンシュタインの命題)がナンセンスであると気づく[6.54]ってどういうこと。

形而上学叙説

4月 30th, 2005 § 0 comments § permalink

せっかくのウェブログなので少しは時流に乗ってみようとばかりに「2005年春リクエスト復刊特集!」(地味)。というわけでライプニッツであります。

本書で押さえておきたいのはやはり神様のところです。神は絶対的に完全な存在であるということです。神の業は神の業であるが故に貴いというような考え方はもっとも神を冒涜しています。白でも黒になる式の不可知を軽々しく口にする人ははまずもって偽物です。神の業が優れているのは、業そのものを見れば分かるのです。誰にでも。

神の業とは個体的実体という主語です。宇宙全体を表出する個体的実体です。神によりいっぺんに作られ、いっぺんに滅ぼされる、過去も未来も含んだ存在そのものです。何だか訳がわかりませんね。というわけでいずれ『単子論』に続きます。

2005年春リクエスト復刊特集!ということならスピノザはどうしたと問いたいところですが(短論文と書簡集が出てます)、デカルトスピノザライプニッツなんていかにも近代哲学史の教科書みたいなので、今回はスピノザはスキップします。いずれまたねっとりと。

あと、さらにどうでもいいことですが、ライプニッツよりもライプニツのほうがいい具合ですね。妙な味わいがね。チョコライプニツ。

方法序説

4月 8th, 2005 § 2 comments § permalink

この手の試みは最初が肝心なのだと思うが、最初が肝心だと思ってしまう時点で何らかの呪縛に囚われているのであり、呪縛にとらわれているがゆえにこの選択となるのである。近代がまだ(私の)世界を覆っているからであろう。本書は次の一文に始まる。

良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に配分されている。

人間だれしも慎重に、注意深く、正しく精神を働かせるかぎりにおいて、必ず真理に到達し得るということである。ここで重要なのはただよき精神を持つだけではなく、働かせねばならないということである。

方法的懐疑の結果(私は疑う、ゆえに私は存在する)が本当に真であるのかについては知らない。正直なところどっちでもいいとさえ思う。むしろ、この、デカルトが体験したであろう興奮を追体験できることに、本書の醍醐味はある。駁されようが覆されようが決して衰えることのない、名著だけが持ち得る力であろう。

デカルトが方法の確立後直ちに行ったのは、神の存在証明だった。これは他ならぬ時代の要請である。自分がもしこのような方法を見つけたら、一体何をするだろう。ん〜。

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