暴力批判論 他十篇

6月 5th, 2005 § 0 comments § permalink

暴力における目的と手段との問題。暴力を手段として論じる場合、個々の具体的な暴力がどんな目的で用いられるかが問われればよいことになります。正しい目的に用いられる暴力は正しい。つまり同じ「殺人」という行為でも、例えば強盗殺人は正しくないけど、死刑は正しい、などなど。

ただしこれでは、暴力が原理として倫理的であるかどうかについては、解決できません。暴力批判論としては、手段そのものの範囲内で決着されなければならないのです。そこで暴力を機能として捉え論じるのがベンヤミンの「暴力批判論」です。

暴力には法を措定し、法を維持する機能があるとベンヤミンは言います(アメリカもジャイアンも…)。そして、法のかなたに、純粋で直接的な暴力がたしかに存在するとすれば、革命的暴力が可能であることも…(中略)…明瞭になってくるとの結論が導かれます。これは、そんなものは、簡単には存在しないと読めばいいのかな。「暴力的革命」ではなくて「革命的暴力」ですしね。

生命ノトウトサというドグマ(!)に捕われてしまっている私としては、「神的暴力(形態のひとつとして、「完成されたかたちでの教育者の暴力」が挙げられる)」がよく分からない、ギリギリのことを言われているような気がします。現代の法治国家がすでに暴力を含んでいる以上、国家暴力の廃止はすなわち国家の消滅を意味するのでしょうか。21世紀でも、不可能だ、そんなことは。「対テロ戦争」とか、卒倒しそうな概念レベルに、われわれはまだあります。

トニオ・クレエゲル

5月 3rd, 2005 § 0 comments § permalink

14歳(これは12歳でも16歳でもいいのだが、便宜上14歳とする)の世界には二つの種類の人間があった。すなわちトニオ・クレエゲルとハンス・ハンゼンである。 この二人の関係は次の言葉により要約され得る。「最も多く愛するものは、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」。敗者というのはトニオであり、敗者判定をするのもトニオであり、そして、残念ながら、ハンスはそういった感情には完全に無頓着である。

16歳(これは14歳でも28歳でもいいのだが、便宜上16歳とする)の世界には二つの種類の人間があった。すなわちトニオ・クレエゲルとインゲボルグ・ホルムである。インゲボルグというのは他ならぬ「彼は、彼はインゲ・ホルムを恋しているのだ。詩なんぞ書くというので、彼を軽蔑しているに違いない、あの金髪の快活なインゲ」のことである。

トニオはトニオでありながら二つの世界のどちらにも安住できないという。こんな種類の問題を人はいつまで抱えることができるのだろう。世界はいつまで許してくれるのか。許すも許さないも結局は、トニオが決めることなのかも知れないが、トニオには決められないことなのかも知れない。

カフカ寓話集

4月 21st, 2005 § 0 comments § permalink

「巣穴」が入ってるってだけで買いです。「皇帝の使者」や「断食芸人」も好きですが、何より「巣穴」です。昨日見た夢です。

自分の作り上げた巣穴を誇りつつも外敵におびえる、それでいて補修作業は遅々として進まず、まったく関係のないことばかりしてしている(忙しいときに限って掃除をしたくなるのに似ています)。こういう人は、一生こういう人のままです。たぶん私(店員K)もそうです。それゆえに感情移入というよりも、同族嫌悪してしまう。

「寓話集」と銘打たれていますが、これはあくまでも「寓話的」だからであり、決して「寓話」ではありません。先にも書きましたが昨日見た夢、夢と現はほぼ同じものです。

完全に思いつきですが、ウェブログはある種の巣穴かも知れません。意味なく拡張して、隙だらけ。

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