ダブリンの市民

9月 29th, 2005 § 0 comments § permalink

何を置いても「アラビー」。清兵衛と瓢箪で私が勝手に期待した愛が、19世紀末のダブリンにありました。

バザーに行けないという女の子に対し、少年特有の照れからそっけない態度をとりつつも、「もし行ったら、何か買ってきてあげる」と、請け負う「ぼく」。この時からアラビーという名のバザーは彼にとっての至上命題となる。しかし。アラビーは遠い。物理的にではなく身体的に遠い。叔父はアラビーの価値に気づかないし、時限は刻一刻と迫る。アラビーの価値可能性を仕方なしに悟った叔母の援助により何とかアラビー行きを実現するものの、結局知ることになるのはアラビーの無価値性だった。少年ゆえの無知と無力によるあわれ。

「対応」のファリントンや「痛ましい事故」のミスター・ダフィーや「死者たち」のゲイブリエルも確かに哀しい。しかしそれは無知ではなく無理解ゆえの哀しさなのです。いや、むしろ痛い。共感して戦慄する種類の痛みです。痛ましいのは事故じゃなくてお前だと突っ込まれうる。突っ込まれれば目が覚める。つまり、気づきうるのです。しかし、アラビーの「ぼく」は、ただ知らされるだけ。知らなかったことを知らされるだけ。知らされてそこに残されて、結局は流されるのです。あえて言うなら、ここに萌えが存在します。

グッとくるのです。

トリストラム・シャンディ (下)

6月 21st, 2005 § 0 comments § permalink

未完だというのは訳者による前書きにあったので知ってはいたのです。が、よりによってあんなところで終わるか。牛で終わるか。モウケッコウ、って駄洒落か。

結局トリストラムは単なる語り手に終始して、主には叔父トウビーの恋物語でした。総天然色のトウビーと存外に世間擦れしている伍長のコンビは絶妙ですね。向かうところ敵なしです。

で、下巻の読みどころは、ボヘミア王とその七つの城のお話。ある種の基本です。ドリフ的なものに通じるかも知れません。

返す返すも未完が惜しい。トリストラムの生涯がちっとも出わってこない。他のキャラクターも活かす余地が残ってしまった。漱石でもジョイスでも誰でもいいから、続きを書いてくれないかなぁ。

トリストラム・シャンディ (中)

6月 18th, 2005 § 0 comments § permalink

トリストラムがついに産まれました!よね?

スラウケンベルギウスっていう誰やねんって人の話が唐突に始まって、吐かれる科白は「やんぬるかな!」 どないやねんと思いますね。で、「スラウケンベルギウスの物語 終り」ですしね。何なのかと。鼻なんですけどね。

さて、中巻の読みどころはズバリ「白熊」。全文引用したい衝動を抑えつつ部分引用します。トリストラムの父に「いざ必要になったら、白熊の話をすることぐらいできるだろうな?」と問われたトリム伍長の独白。

白熊!はい、よろしい。わしは見たことがあったっけかな?
…それならばわしは白熊の皮は見たことがあるだろうか? 絵に描いた白熊は見たことがあるだろうか?ー白熊を書いた文章は? 白熊の夢も見たことがないだろうか?…
ー白熊は見る価値があるのか?
ー白熊を見ても罪悪にはならぬのか?
白熊と黒熊とどっちが善良なのか?

よくよく考えると、僕も白熊を見たことがない。だけど、白熊黒熊どっちが善良の問題については、一家言もっといたほうがいいかもな。

トリストラム・シャンディ (上)

6月 15th, 2005 § 0 comments § permalink

とりあえず、トリストラムはまだ産まれていません。

表題を直訳すれば『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』のようですが、正確には『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見とその周辺』といったところ。「意識の流れ」ではなくやはり「物語の流れ」、意識は通常このようには流れません。ただし、物語は理想的に流れます。他の物語たちが断念せねばならなかった支流をもあきらめることなく。

読みどころ満載ですが「悪態」の蒐集に関する下り(とそこに至る流れ)と「鼻」の仮説に関する考察(とそこに至る流れ(とそこからの流れ))については特に拘泥したいところです。「鼻」については上巻(原書では第三巻)では収まりませんでした。おそらくこのまま結論は出ないと思いますが、「鼻が妄想を生むのか、妄想が鼻を生むのか」の問題についてはゴーゴリが詳しく論じているところですので、いずれまた、ねっとりと。

トーノ・バンゲイ(下)

6月 12th, 2005 § 0 comments § permalink

下巻こそ「トーノ・バンゲイ」炸裂を期待したのですが、実際のところは「ジョージ・ポンダレヴォーの恋愛論」じゃないですか。しかも「失敗例に学ぶ」とか何とか吹き出しでもつきそうな。

上巻の終わりあたりで「トーノ・バンゲイ」からは身を引いた「私」は、徐々に空中飛行の実験に身を入れはじめます。それがまさか、あのような形で実を結ぶことになろうとは。さすが。SF作家の面目躍如です(関係ないか)。

余談。下巻を読み進めていくうちに、妙な違和感がふつふつと。いや、むしろ上巻にはあった違和感がなくなってしまったような気が…。何だろうなぁと思ったら、字体でした。上巻は旧漢字だったのが下巻は新漢字になっているのです。奥付を見てみると、上巻の初刷が1953年なのに対し下巻は1960年。翻訳者いわく「公私のさまざまな事情により」とのことですが、そんなときこそアレの出番ではないですか。

「タ〜イ〜ム〜マ〜シ〜ン!」

ぴかぴか。

トーノ・バンゲイ(上)

6月 9th, 2005 § 0 comments § permalink

『トーノ・バンゲイ』というよりも『ジョージ・ポンダレヴォーの半生(と意見)』というような具合。

一読しての奇妙に思うのは、トーノ・バンゲイ(とその周辺)非現実ぶりに対する、「私」の幼年期から青年期における生活の妙な現実味である。

私は叔父に会うとすぐに、なるほどこれはテディだと思った。…(中略)…それをほかの言葉で言いあらわすのは、なおさら難しいことである。

私はテディなど知らないが、「私」の「テディ的」という言葉には、完全に同意する。また、「私」の恋愛における失敗と後悔には、声をあげて頭を抱える。そんな種類の感情移入が「私」にはある。いや、それは感情移入ではなく、単純な読書体験における「なぞりたい」という欲求に過ぎないのかも知れない。傷口にあえて触れたい衝動のようなものである。

肝心の「トーノ・バンゲイ」については、まだほとんど語られない。いかにして「私」がいんちきと呼んで憚らない「トーノ・バンゲイ」と関わることになるのか(他でもない恋愛と結婚が原因となるのであるが)、そのような周縁的事実の効果が、後半の読みどころと思われる。妙な現実味と説得力がどこから漏れでているのかも、あわせて確認したい。

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