東京日記

2月 1st, 2009 § 0 comments § permalink

東京日記といっときながら全然日記ではない。「日常の中に突如ひらける怪異な世界」ではなく怪異な世界そのものだ。

私は二、三日前からそんな事になるのではないかと思っていたが、到頭富士山が噴火して…

こういうことをしれっと書いて、奇を衒うところのないのが迫力だと思う。世界そのものなのだと思う。

逆に、平凡だと油断して膝を抜かれるのが「柳撿挍の小閑」。箏を教える盲人の心情など機微に疎い私の埒外と安心しきっていたら、俄然と想像を展開される。73ページの最終行で。無理だこれはオレには引き受けられない。引き受けられないが実際問題として多分すでに引き受けている。こういう気持ち、10年前にはわからなかったなぁ。5年前でもあやしいだろう。そういった種類の、経験じゃなくて経年なのだ、意気地がなくて御免なさい。

山月記・李陵 他九篇

3月 5th, 2006 § 0 comments § permalink

タイトルからして『山月記・李陵』だし、昔の中国ばかりだろうと予断していたがそんなことはなかった。

西遊記で最も地味なキャラクタといわれている沙悟浄を主人公にした「悟浄出世」。自我の問題に悩む悟浄が各所の賢人を訪ねて回る。賢人たちの説くことはまちまちで彼は何を信じていいのか分からない。だが私は、これを信じればいいのではないかと思う。

「我とは何ですか?」という渠の問に対して、一人の賢者はこういうた。「まず吼えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようじゃお前は鵞鳥じゃ」

あれ? 西遊記は昔の中国か。

小僧の神様 他十篇

9月 1st, 2005 § 2 comments § permalink

「清兵衛と瓢箪」。店主にあらすじ聞いて、おぉやるじゃん志賀直哉、食わず嫌いでゴメンよと勢い込んで読んだはいいのですが、違う。全然違う。

とりあえず、父は要らない。先生も要らない。そう、先生なんか登場させちゃうから、「解説」で、子供の伸びようとする個性、才能を押しつぶすのが大人だという風景は、現代の家庭教育、学校教育のなかでも、そのまま該当するなどと書かれてしまうのである。大人VS子供などという陳腐な図式で捉えられてしまうのである。

そうじゃなくてこれは、母親VS息子でしょう。登場人物はこの二人だけでいい。そして主題は「価値観の、どうしようもない相違」。

母は何の悪気もなしに、清兵衛の瓢箪を捨ててしまう。深い考えもなく、ただ捨ててしまう。捨てられたことにより、清兵衛は瓢箪の「無価値性」に気づくのでしょう。捨ててしまったことにより母は瓢箪の「価値可能性」に気づくのでしょう。この両者の了解が重要なのです。了解しているのに、歩み寄れない。いや、了解したがゆえに歩み寄れない。互いに違うことがわかっていて、充分すぎるくらいわかっていて、その上で悲しい。

清兵衛は瓢箪と母の一部をあきらめて、母は清兵衛の一部をあきらめる。埋められない、そこに存在するいかんともし難い断絶を描くべきでしょう。なぜ文豪が「子供の伸びようとする個性」なんぞ描かねばならないのですか。子供をなめているのですか。

「小僧の神様」も同じ。「の神様」は要らない。「小僧」だけでいい。小僧に鮨なんて食わせなくていい。要らないものを書くから、本当に大事なものが見えなくなるのだ。で、揚げ句の果てに超自然か。言うに事欠いてお稲荷さんか。ふ、ふざけるな!無罪だとふざけるな!逆転有罪!溺死の刑に処す!

というわけで、志賀直哉にはたぶん誤読の余地がたくさんあるので、今後ともうまい具合に過ってゆきたい所存です。

柿の種

8月 22nd, 2005 § 0 comments § permalink

類い稀なる物理学者による冴え渡る予言の数々。その先見性には目を見張るものがある。

映画の入場料を五十銭均一にしたら入場者が急増したという話を聞いて、筆者はこれが五十銭ではなく四十七銭均一で、いちいち三銭の釣りをもらうのであったら、こんなにも流行らないだろうと予想する。そして、その打開策として。

偶然友人の経済学者に会ったので、五十銭銀貨の代わりに四十七銭銀貨を作って流通させたら日本の国の経済にどういう変化が起こるかという愚問を発してみた。これに対する経済学者の詳細な説明を聞いた時は一応わかったような気がしたが、それっきりきれいに忘れてしまった。

筆者は「忘れてしまった」と書いているが、自ら「愚問」としていることから、このような試みは何の意味もないことを悟ったであろうことが読み取れる。中途半端な額面の貨幣を作っても誰も使わないし景気は好転しないと。ああ、似たような話が最近どこかの国でありましたね。

次は短いので章全体を引用してみる。

新しい帽子を買ってうれしがっている人があるかと思うと、また一方では、古いよごれた帽子をかぶってうれしがっている人がある。

筆者は「また一方では」と書いたが、真意はそうではない。彼は将来、両方をうれしがる人が現れることを知っている。そしてその答えはジーンズショップにあるだろう。

最後に引っかかるのは書名、すなわち「柿の種」である。私にはこれが何かを訴えているような気がしてならないのだがどうか。明後日あたりに何かが起こるような気がしてならないのだがどうか。

草枕

7月 25th, 2005 § 0 comments § permalink

確かに。どこを切っても血が迸る。

これという句切りもなく自然に細りて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた秒を縮め、分を割いて、心細さの細さも細る。

これだけ細い細い書いてもなお細いのは、それだけつまり細いということである。

さて、東京で電車にひき殺されそうになった「余」は、非人情を求めて山を登り、人外の湯泉郷那古井へとやってくる。

去れどもわれは動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍惚と動いている。

確かに。これでは住み難かろう、人の世は。敵はもちろん電車だけではない。自動車のクラクションや電話のベルは何と人情なことだろう。小説くらい好きに読ませろ。僕は最初から最後まで、一字一句漏らさず読むがな。だからこそ、プロットの不要を叫ばなければならないのかも。

さらなる強敵、件の出戻りむすめについて見るべき垣間が見えるのは「憐れ」の浮かぶ前。浮かんでしまった後はどうしても、人情に堕ちてしまうからです。たった二行のことながら、このへんは惜しいと思う。

冥途・旅順入場式

5月 27th, 2005 § 0 comments § permalink

夢というものには基本的に落ちがない。なぜだかは分からないがおそらく落とす必要がないからであろう。その意味においては冥途の各篇は夢的なのであるが「豹」には、見事な落ちがついている。これを予想できる人がいたら挙手願いたい。こんな夢を見たらショックで起きられなくなる。いや、こんな夢は見ない。途中までは夢だと思って安心していたが、豹は夢ではなかった。

対照的なのが「旅順入場式」の遣唐使。何がって、冒頭が、振るっている。

私は遣唐使となって支那に来た。

言うに事欠いて私は遣唐使。どこの誰やねんと。

かと思えば「件」。件になってしまったらしいが予言はできない。そもそもできる気がしない。この無力感は覚えがち。現実にできないことが、夢にできるはずがない。夢は荒唐無稽なものだと、見くびってはいけない。ああ、リアリズム。

注)閒は門構えに月です。

高野聖・眉かくしの霊

4月 24th, 2005 § 0 comments § permalink

誰が目にも比類ないのは文体にあり物語の嘆美または陰惨たるものその添え物に過ぎず、ただ茫々と読みいるにつけ作者の術中にはまるばかりで。

が、そこはそれ、妙というに取り込まれ茫たる頭ますます茫然としつつ妖女の艶やかなる所作のひとつひとつに溜め息つけば、我は白痴、聖、夢、現の境も模糊模糊に。

日本人で、というのはこの場合、母語として日本語を使う国に生まれ育って、本当によかったと思うのです。つまらない社会の教科書、というのはこの場合、マッチョな歴史物語で飽き飽きさせるくらいなら(ちょびヒゲ描かれるのが関の山だろう)、物語がなくても生きていける力を身に付けさせる方が、よっぽど世とか人とか御国のためになりますよ。何かに依存するのはだらしない。否定しようとは思わないが、だらしない。

『高野聖』の迫力は、物語から離れたところにあるのです。切り離すことはできないけど、文体。

銀の匙

4月 11th, 2005 § 0 comments § permalink

幼児期の偽記憶を刺激する。あくまでも偽である。こんな母とかこんな友だちとかこんな先生とかは絶対にいなかったし、こんな科白やこんな道具やこんな風景を見たことなどあるわけがないのだが、もう、ただただ懐かしい。これはつまり本当に懐かしいのではなく、懐かしいという感情を巧い具合にくすぐられているのであろう。記憶力に自信のない人ほど、泣かされるのではなかろうか。

蕎麦饅頭をぱくぱく食べながら、「大往生じゃ、大往生じゃ」と連呼したい。

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