今はもうない

7月 21st, 2006 § 0 comments § permalink

例によって例のごとく旭屋の棚をぶらぶらねめつけておりますと、みすずコーナーに見覚えのあるタイトルが積まれているのですね。『ガロアと群論』です。「東京国際ブックフェア記念復刊」でした。

10年ぐらいに何らかの血迷いがあって購入して、「読んでない」ですから当然のように読んでないわけですが、新装版よりも旧版のほうがかっこよくて結果オーライといったところです(しかもすごい高くなってる…)。いや、詩集みたいに文字の少ない本なので、さらっと目ぐらい通したかも知れません。当然のように内容は理解してません。群論? 群れ? ガロアの群れ? 群馬県?

パラパラめくってみれば、ページの間から紙片がひらり。平成8年9月26日付けの「納品書」でした(ほんとに10年前だった…)。当時、書店でアルバイトをしていたのですが、納品書を切っておけば、給料から書籍代が天引きされるというシステムでした。一緒に買ってる本が『古代ユダヤ教 (上)』で、えぇ、これも読んでませんね。いい機会ですので近々のうちに読みたいですね。

それはそうと、納品書の起票欄には店長のサインが。元気にしておられるのでしょうかねぇ。

ラッセル 幸福論

7月 15th, 2006 § 0 comments § permalink

幸せとはなんぞやを知らずとも、幸せな人は幸せなのであるからして、「幸福論」は野暮である。にもかかわらず、「幸福論」と銘打たれる言説は世に数多存在します。グーグルで幸福論アマゾンで幸福論、そして岩波文庫で幸福論。手始めにラッセルです。

第一部で「不幸の原因」が分析されます。その列挙は網羅的。「バイロン風の不幸」(初期状態としての不幸)「競争」「退屈と興奮」「疲れ」「ねたみ」「罪の意識」「被害妄想」「世評に対するおびえ」。この中のひとつにでも襲われることがあれば、人は不幸になりえます。すべてに襲われることがあれば、それはそれで喜劇であるのかも知れませんが、もちろん当人は不幸です。

第二部では第一部を踏まえ、「それでもなお幸福は可能か」が問われます。「熱意」「愛情」「家族」「仕事」「私心のない興味」「努力とあきらめ」(中庸)がその源泉です。結論的には「バランスのとれた人格と宇宙との調和」ってところですね。「バランスのとれた人格」ってのは重要で、単に「宇宙との調和」だと電波っぽくなってしまいます。

幸福「論」というよりも処世「術」。こうした方が生きやすいですよ、というような啓蒙書でした。そもそも「幸福論」なんて、「うまくいかない」「不幸だ」「何とかしたい」などと思ってる人が手に取るものなのでしょうし、そういう意味では、幸運を呼ぶスピリチュアルナントカとか、風水でつかむラッキー危機一髪とかいった類いのお手軽本よりは、手に取りやすいだけ幸せかも知れません。

で、例によって例のごとく本筋から外れたところに引っかかっていくわけです。幸福について書かれた第二部の「熱意」の章。例示としてなぜか「ソーセージ製造機」が登場します。

あるとき、ソーセージ製造機が二台あった。ブタをこの上もなくおいしいソーセージに変えるために作られた精巧な機械だった。そのうちの一台は、ブタへの熱意を持ちつづけ、無数のソーセージを製造した。もう一台は、言った。「ブタなんかどうってことなはないさ。私自身のしかけのほうが、どんなブタよりもずっとおもしろいし、すばらしい。」

自分自身の研究に夢中になりソーセージを作らなくなった機械は中身が空っぽになってしまった、という話で、引きこもるな、世界に目を向けよ、という主旨なのですが、ソーセージ製造機の擬人化って、もっと別の意味がこもってきませんか。ブタやソーセージ製造機を貶めるつもりはなくても、世界がブタで自分はソーセージ製造機ってのは鬱屈しそうです。他にいい喩えがなかったのかしら。ラッセルはイギリスの人かと思いましたが。

読んでない

7月 12th, 2006 § 1 comment § permalink

京都駅前の旭屋を訪れてみたところ、すでに夏の岩波文庫一括重版が積まれていました。ラインナップはこんな感じです。トリストラム・シャンディ大転落が入ってますね。古書店にて古書店価格で購入したことについては言及しませんよ。言及しませんとも。

というわけで岩波文庫的には夏なわけですが、私としましてはまだ春のリクエスト復刊も読めてない。何が読めてないかというとデヴィッド・ヒュームの『人性論』ですね。こんなもの誰が好き好んで読むのかしらと思いながら購入してやっぱり読んでないわけです。全四冊ですしね。哲学分野で全四冊は破格に長いんじゃないですかね。『純粋理性批判』は三冊でしょ? 『存在と時間』も三冊だ。お、『新エロイーズ』『ダランベールの夢』は四冊ですね。だからって『人性論』が短くなるわけじゃないんですよ。長いんですよ。寝る前に読んでたら七年ぐらいかかりますね。しかもこれ旧字体。何とも味わい深いフォント。でも読んでないんですよ。読んでないんです。

というように新カテゴリ「読んでない」は、読んでない本についてぐだぐだ書く日々の鯖です。読んでないから内容には一切触れませんよ。えぇ。

まぁ一口に「読んでない」っていっても、今回みたいに「うっかり買っちゃったけど、読んでない」ってのもあれば、「次読もう。何が何でも読もう。でもまだ読んでない」とか、「読もうかどうか悩み中、つまり読んでない」とか、いろいろなレベルの「読んでない」があります。「興味ないから読んでない、未来永劫読んでない」ももちろん「読んでない」です。それこそこれまでに出版された本の数から「読んだ」を引いた分だけネタがあるわけで、もう、バベルの図書館。言うなれば、サバベルの図書館。どうしよう。更新しまくりそう。店主が沈黙してるのをいいことにやりたい放題だ。ヒャッホー!

ヒャッホー!

静かな愛国

7月 6th, 2006 § 0 comments § permalink

私は愛国者を信用する。でもその人はいわゆる愛国者ではないのかも知れない。というのは三島由紀夫の言葉が参考になる。孫引きになるが引いてみよう。

愛国心の「愛」の字が私はきらひである。自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。

愛国の愛はつまり愛玩の愛である。いつからお前はそんなに大きくなったんだ、と。

また、

この言葉には官製のにほひがする。…どことなく押しつけがましい。

というのは卓見であったといえる。何十年か後の与党の愚策を予言しているわけである。愛国心を教育の対象とせねばならないのは、ニセモノの愛国者(国賊といってもいい)が、その稚拙な「頭」で捏造した愛国心を、振りかざしたくて振りかざしたくて仕方ないからである。そういうのって、教えられて(もっと言えば強制されて)身に付けるものではないでしょう。愛国心を盛りたい人ってのは、日本には魅力がないと思ってるのかな。

ふつうは。自分が生まれて育った国でしょう? 嫌いなはずはないんだよ。それをことさら「愛国!愛国!」って唾飛ばしてる人ってのは、一体何? ふつうの人は、口に出さなくても好きなんだよ日本のこと。なんでいちいち「愛国!愛国!」連呼せねばならんのか。もしかして、ほんとは嫌い?

著者は「愛国」に代わる言葉はないものかと問題提起するが、結局のところ答えは見つからない。「愛」ではなくて「恋」なのではないかとも言われる。でも、「恋国」はちょっと変だしね。

愛国心は国民一人一人が、心の中にもっていればいい。口に出して言ったら嘘になる。また他人を批判する時の道具になるし、凶器になりやすい。だから、胸の中に秘めておくか、どうしても言う必要がある時は、小声でそっと言ったらいい。

という静かな愛国者を私は信用したいと思う。

Where am I?

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