現在のフランス国王は禿である

3月 30th, 2006 § 0 comments § permalink

ラッセルがバランスの人だということがよくわかった。

心か物質か、たいがいの人はどちらかに振れてしまうものであるが、ラッセルは中性一元論を編み出して、その危機を乗り切った。

モレルかウィトゲンシュタインかという選択においてもそうだ。たいがいの人はどちらかに寄り切ってしまい、身を持ち崩したりするわけであるが、ラッセルは見事に等距離を保った(と信じる)。モレルはたぶん喜んだ(と思いたい)が、ウィトゲンシュタインからは激しく批判された。

ラッセル・アインシュタイン宣言に「人類」という言葉が頻出するのに対しラッセルは、「人類」という概念は抽象的すぎて、一般の人には親しみが感じられないのではないか、それが戦争をやめられない原因なのでは、と心配したという。理想言語と日常言語についても、どちらが素晴らしいとかどちらが本物であるとかを、決めつけてしまわずにうまい具合にやれたのは、ラッセルだからなのではないか。

中性一元論って、誰もがうっすらと考え浮かべていることなのではないだろうか。やっぱりな、身体に魂が宿るとか、客体は主体の中にあるとか、リアリティがないもの。お話としてはうまくできてるんだろうけどね。

実体なんて誰も信じてないのに、信じるふりをしているのはなぜか、その方がむしろ不思議だと僕は思うのだ。

で、中性一元論って?

全裸で

3月 26th, 2006 § 0 comments § permalink

とにかく、全裸で。

宇宙からきたナメクジ状の生物が人間にとりつく。とりつかれた人間はナメクジに支配されるが、一見したところふつうの人間と変わりない。肩の辺りにとりつかれるので、若干猫背かなぁ、という程度。なので、とりつかれた人とそうでない人とを区別すべく、合衆国大統領は「上半身裸体計画」を布告する。その後の調査でナメクジは下半身にも隠れることが判明したため、「上半身裸体計画」は「日光浴計画」に切り替えられた。まぁ脱げ、話はそれからだ。というわけである。

と書くと、まるでユーモア小説みたいですが、実際ユーモア小説です。引用してみましょうか。どこでもいいのですがまぁ適当なところで。

われわれは、あらゆる戦線で敗北を重ねていた、全裸で。彼らと直接戦うには、彼らをどれだけ殺せるかという確信もないのに、わが国の都市を爆撃しなければならなかった、全裸で。われわれの最も欲していたのは、ナメクジを殺して人間は殺さない武器、あるいは人間を活動不能にするか殺さず意識不明にしておいて、そのあいだに人間だけを救い出すことを可能にするような武器だった、全裸で。

注:「全裸で」は引用者追記ですよ、念のため

がしかし、ただのユーモアで終わらないのがさすがはハインラインで、ここからはネタバレになりますのでご注意下さい。

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アンチ・アンチ・ヒロイズム

3月 16th, 2006 § 0 comments § permalink

「丸々と太った色白の、四十代前半とおぼしき(本当は35歳)」「ロリコンでマザコン」「注射(針が皮膚を刺す瞬間)フェチ」というわけで端的にいうと変態神経科医なわけですが、この伊良部が誰かに似てるなぁと思ったら、京極堂シリーズの主人公、中禅寺秋彦でした。というのは、二人ともやってることが同じなのです。すなわち憑き物落としです。

京極堂がおいしいところだけ出てきてしゃんしゃん落とすのに対し、伊良部は患者の症状(プール中毒、結婚失敗、自意識過剰、携帯依存、確認行為の習慣化)に終始まとわりつき、徹底的に戯画化することにより落とします。その戯画化の手段が振るっているのですが、たぶん医者としては問題がある行為なので、その意味ではブラックジャックに似ているともいえます。

というわけで、京極ファンと手塚ファンから投石されそうなことを書いてますが、それだけ伊良部がかっこいいということです。なんていうか、ふつうにかっこいい。むしろ、京極堂やブラックジャックよりもかっこいい。京極堂やブラックジャックは読者をある程度選ぶでしょうが、伊良部は選びません。誰からみてもかっこいい。甲高い声で「いらっしゃーい」なんて迎えられたら卒倒しそうです。

それから、看護婦のマユミさんが誰に似ているかを考えながら読むのもおもしろいのでおすすめです。

生きていく技術

3月 12th, 2006 § 0 comments § permalink

哲学というと「何のために生きるか」とか「我とは誰か」とか「世界をいかに認識するか」とかそういった問題を解く学問だと思われがちですが、いっそのことそういった問題を解く学問だったらよかったのになぁと、本書を読んで私は強く思いました。

一言でいうと哲学は無意味。いや、無意味ですらなくナンセンス。ウィトゲンシュタインに万歳三唱。

哲学科の新入生がいきなりこの講義を聴いたら惑うし場合によっては萎えるのでしょう。ただしそれはいずれ通るべき道。哲学が病であるとしたらそれは「恋する私は狂っている」とか、そういった類いの病なのです。治らないものではない。治るのが幸せかどうかは、その人の気質によるのでしょうが、治るべきでない人が治ってしまうよりも、治るべき人が治らないほうが、よりいっそう不幸であるような気がします。私自身はおそらく治るべきでない人間で、たぶん治ることはないと思われます。というのも「我思う、ゆえに我あり」というのは学究的な真理ではなく、運に恵まれた人が辿り着くひとつの体験だと考えるからです。強度といってもいいのかも知れません。だから間違ってても死なないし、「沈黙せねばならない」一方で、「現在のフランス国王は禿だ!」と国中に触れて回るのでしょう。

ただ、やっぱり、社会人として生きていく上では、哲学(むしろ形而上学)を括弧に入れる技術は必要です。「私は存在するのか」で悩むことはないにしても、「この書類を決裁したのは本当に上司なのか」とか「この印鑑の印影はこれであるために必要な条件とは」とか「この電話の相手と昨日会った相手が同一人物であることの根拠は示せるか」とか程度の疑問はいくらでも涌いてきます。それをうまく留保した上で(解消できればベストですが)、仕事をこなすというのは存外難しいです。難しいと思うのです。難しいと思うのですが違いますか。

健全な社会生活を営むための技術書としてむしろ、本書をすすめます。そうです。これはテクニックなのです。だから、本書は哲学とか岩波とかの棚ではなく、ビジネス書コーナーに陳列されるべきです。装幀が岩波としてはかなり柔らかいのも、そういった意図があるからではないでしょうか。できればネガティブめの自己啓発とかそのへんで。カーネギーとかナポレオン・ヒルとかの隣は不可です。倒れそうになりますので。

山月記・李陵 他九篇

3月 5th, 2006 § 0 comments § permalink

タイトルからして『山月記・李陵』だし、昔の中国ばかりだろうと予断していたがそんなことはなかった。

西遊記で最も地味なキャラクタといわれている沙悟浄を主人公にした「悟浄出世」。自我の問題に悩む悟浄が各所の賢人を訪ねて回る。賢人たちの説くことはまちまちで彼は何を信じていいのか分からない。だが私は、これを信じればいいのではないかと思う。

「我とは何ですか?」という渠の問に対して、一人の賢者はこういうた。「まず吼えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようじゃお前は鵞鳥じゃ」

あれ? 西遊記は昔の中国か。

「わたし」の読み方

3月 5th, 2006 § 0 comments § permalink

カフカの『断食芸人』を3回の授業で読み解くという趣向です。残念ながら私は3回のうちの1回目の、そのまた十分の一も理解せずに読んでいたことが判明しました(例えば断食芸がなぜ30日でも60日でもなく40日間なのか、とか。そういえば『四十日』をいつか読みましたね)。それはそれで貴重な読書だったわけですが、本書に中学生や高校生の頃出会っていれば、また違った読み方もできたのではないかと思います。まぁ一回限りが読書ではありませんし、何度でも読みたいカフカということで、それこそ飽きもせずに粘着して読み続ければいいのでしょう。

私が今回驚いたのは、私がこれまでカフカの作品に対して「寓話的」な何かを一切感じていなかった、ということです。断食が芸だったり毒虫になったり言われなく逮捕されたりアメリカに追放されたり測量技師として城に呼ばれるも一向にたどりつける気がしなかったりアリジゴクのような処刑機械で処刑されたり侵入に怯えたりするようなことは、現実には起こりません。可能性は微塵もありません。しかし、これらの作品をリアリズム小説であるかのように読んでいたという事実に、カフカの世界認識に対する圧倒的な迫力を覚えるのです。

カフカのこの迫力は、「アルキメデスの点」から世界をひっくり返そうとせんがためであると著者は指摘します。恐怖は幽霊そのものではなく、幽霊が出現する原因にある、というのはカフカ自身の言。『変身』を読んで「毒虫? 何それ? ありえねー」という感想を抱く人がこの世に存在しないのも、毒虫自体ではなく、毒虫に変身する原因にリアリティがあるからなのだと。ヨーゼフ・Kは、犬のようにくたばるべくして、犬のようにくたばるわけです。

本書標題にもあるように、カフカを読むというのは「わたし」を読むということにほかなりません。これは誰しもが必ず通過する読書体験で、その体験をより幸福なものにしてくれるのが本書であるといえましょう。私はといえば若干不幸ではありましたが、それでもカフカ以後の世界に生まれてきたことを、ただただ神に感謝するのです。

Where am I?

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