心変わり

11月 21st, 2005 § 0 comments § permalink

心変わりのタイトルが書店に積まれているのを見てクラクラしました。あらすじ紹介はやらなくても、やらなきゃならないのは「きみ」。「きみ」についての気分を述べることでしょう。

「きみ」というのはもちろん読者のことではありません。君は45歳になったばかりではないし、頭が薄くなりはじめてはいないし、アンリエットの髪が黒いのを思い浮かべたりはしない。スカベッリ商会とは関係ないし、ローマに愛人はいない。だけどもその男は「きみ」と呼ばれるのです。
列車内での「きみ」の心変わりがあまりにもスムースなので、「きみ」はその描写のための方便だと以前の私は思っていましたが、素直に読むならば「きみ」というのはつまり誰かに「きみ」と呼びかけられている主人公以外の何者でもないですね。「きみ」が主人公であるのはいいとして、では「きみ」と呼びかけているのは誰なのでしょう。誰でもないのでしょう。

世界に投げ出された現存在が「どこから」を問えないのと同じで、「誰が「きみ」と呼ぶのか」も、「誰でもない」としかいいようがないのでしょう。「誰でもない」というのは「誰でもない誰か」ですらありません。もちろん作者でも語り手でもビュトールでもありません。読者であるあなたでもないはず。ただ「きみ」は、「きみ」と呼び出されているのです。そしてこれは手法として確立されています。

確立されているにも関わらず、類書が見られないのは何故でしょう。それはつまり、タイプしながら消えていく、はじめから存在しないものとして消えていくことの困難さなのでしょう。今さらいうまでもありませんが、この「消える」とか「存在しない」とかも比喩に過ぎませんので念のため。ことばってのは本当に不自由ですね。

「きみ」が「彼」と呼ばれる時間帯に、彼に語りかける声というのは誰なのでしょうね。ただの彼自身なのでしょうか。だとすると「きみ」と呼ぶのも「きみ」自身だと説明したくなりますが、簡単に済ませようとするな。

いちばん後ろにいるのは誰か

11月 20th, 2005 § 0 comments § permalink

何ごともつつみかくさず、タブーをつくらず、できるだけすべてのことを分かち合おう、というモットーのもとにいとなまれる四人家族の物語。舞台は郊外のダンチ。語り手は六人。最初は長女で、父、母と継がれ、家族外からも語られる。家族がモットーどおりにいとなまれているはずはなく、語り手が代わるごとに新たな事実が追加されるのはもはやお約束とも言えるが、後から出てきた人がより多くの事実を握っているかというとそうでもない。いちばん後にいるのは当然読者なわけで、読後、じゃあこの家族は何なのかと問われても答えるのは難しい。難しいあたりにリアリティを感じる。実際にこんな家族を知っているわけでもないのに。

例えば父が語る「チョロQ」における父の逃げっぷりのリアリティは、後の愛人描写による父のダメっぷりによって補完され凌駕される。私は絶対にこの愛人に感情移入することは出来ない(その能力が無い)のだけれど、それは決して不自然でも破天荒でもなく、やはりリアルだとしか言いようがない。もちろんこんな父や愛人を知っているわけでもないのだが。

最終的に家族をみんな書いてリアルは完成するが、結局中心にあるのは誰なのか。母なのか弟なのか。アンダルシアのヤリマンなのか。それにしても野猿って何なんだろうなぁ。野猿がいちばん謎だったよ。

方丈記

11月 6th, 2005 § 0 comments § permalink

仮の住まいだと思ってたところにひきこもり、これが存外心地いいではないか、という話?

たゞ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。程狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。

なわけですが、最終的には

仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。今草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。

と言い出すのですから、いつまでもひきこもってちゃダメ、何ごとにも執着しちゃダメ、ってことでしょうか。すみません正直よく分かりません。

万物は流転し不変のものなどないとはいえ、「ゆく河」が下鴨神社からほど近い鴨川を指すのだとすれば、800年経った現在でも変わらず流れており、そう、物は壊れるし人は死ぬんだけども歴史という大河は脈々と流れつづけている。まぁいつかは河も流れるのをやめるわけですが(歴史なんてものはすでに枯れ果てているのかも知れません)、僕が生きている間はそこに流れていてほしいと思ったりもするわけです。

Where am I?

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