草枕

7月 25th, 2005 § 0 comments § permalink

確かに。どこを切っても血が迸る。

これという句切りもなく自然に細りて、いつの間にか消えるべき現象には、われもまた秒を縮め、分を割いて、心細さの細さも細る。

これだけ細い細い書いてもなお細いのは、それだけつまり細いということである。

さて、東京で電車にひき殺されそうになった「余」は、非人情を求めて山を登り、人外の湯泉郷那古井へとやってくる。

去れどもわれは動いている。世の中に動いてもおらぬ、世の外にも動いておらぬ。ただ何となく動いている。花に動くにもあらず、鳥に動くにもあらず、人間に対して動くにもあらず、ただ恍惚と動いている。

確かに。これでは住み難かろう、人の世は。敵はもちろん電車だけではない。自動車のクラクションや電話のベルは何と人情なことだろう。小説くらい好きに読ませろ。僕は最初から最後まで、一字一句漏らさず読むがな。だからこそ、プロットの不要を叫ばなければならないのかも。

さらなる強敵、件の出戻りむすめについて見るべき垣間が見えるのは「憐れ」の浮かぶ前。浮かんでしまった後はどうしても、人情に堕ちてしまうからです。たった二行のことながら、このへんは惜しいと思う。

阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊)

7月 20th, 2005 § 0 comments § permalink

阿Qはなぜこの人が主人公なのだろう、小悪党だし阿呆だし。見るべきところがない。と思ったらあった。

だがかれは、敗北をたちまち勝利に変えることができた。かれは右手をふりあげて、自分の横ッつらを力いっぱいつづけざまに殴った。飛び上がるように痛かった。だが殴ったあとは気がはれて、殴ったのは自分だが、殴られたのは別の自分のような気がした。そのうちに自分が他人を殴ったような気がして…

常にこの方法で満足していればよかったのだが、必ずしもそうではなくて、自分より弱いものを見つけて苛めたりもする。

阿Qは考える。いや、考えるというほどのことではない。ぼんやりと思う。「人として生まれた以上、たまには○○だって、ないわけではない」。この○○には「首をちょんぎられること」とか「引き廻しにされること」とかの語が入る。だから、何でもいいのか?

そもそも作者はどういう意図をもって阿Qの「正伝」を書いたのか。中国社会の現実を描いて云々?これがスタンダード?

ところで阿Qの「外伝」はいつ出るのかな。

パルムの僧院(下)

7月 14th, 2005 § 0 comments § permalink

前エントリで紹介した逸材、ちゃんと下巻でカムバックしましたよ。もう痛くて痛くて読めたものではありませんが、いる。こういう人、いる。さすがに鉱物採取はレアだと思われますが、こういう人は、いる。

さて主人公ファブリスはといえば、出たり入ったり忙しい。次なるターゲットはクレリアちゃん。クレリアちゃんのお父さんはファブリスが投獄されている城塞の長官コンチ将軍ですよ。障害のある恋のほうが燃えるってことでしょうか。ファブリスののめり込みっぷりが尋常ではなく、上巻での飽きっぽさからは想像もつかない粘着っぷり。もう出たり入ったり出たり入ったり。本命と目されたサンセヴェリナはいい面の皮ですよ。

結論:死刑だ死刑!

パルムの僧院(上)

7月 11th, 2005 § 0 comments § permalink

ナチュラル非道な(岩波文庫的には優雅で美しく無垢な)主人公ファブリスによる波瀾万丈巻き込み型の物語。

恋人のいる女性にちょっかいを出しては、恋敵を正当防衛の名分で刺殺したり、決闘で再起不能にしたり。揚げ句の果てに、なんとかして経験してみたいと思った恋にも、僕はすっかりあきましたとな。死刑だ死刑!

まぁそれはそれとして。

名著と云うのは本筋から離れた部分にこそ、その真価を発揮する。細部に至るまで容赦なし。

サンセヴェリナ公爵夫人がパルム大公一家に謁見する場面。最後に夫人は公子殿下のところに通される。

鉱物に造詣ふかく、十六歳である。夫人が入ってくるのを見ると真赤になってしまった。この美しい夫人になんといっていいかまるで見当がつかない。彼はなかなか美男子で、毎日金槌を手にして森の中ですごしていた。黙ってじっとしているばかりの謁見を切り上げようと公爵夫人が立ち上がりかけると、公子は高い声でこういった。
ああ、奥さん、あなたはなんという美しいかただろう!」

(赤字処理引用者)

世が世なら間違いなく収監されてますね。

こんな逸材も登場はこれだけ。なんとも贅沢な話です。

ねじの回転 デイジー・ミラー

7月 9th, 2005 § 2 comments § permalink

アメリカ代表デイジー・ミラーは、真意のつかめない女の子キャラクターとして秀逸に描写されていると思うのですが、何と言っても読みどころはヨーロッパ代表コステロ夫人。ミラー家を評して。

「ひどく下品なのが悪いか悪くないか、そんなことは哲学者の先生にでも考えていただくことにしましょう。とにかく私が嫌うには充分なくらい悪い人たちですよ。短い一生なのだから、それで充分じゃないの」

人生は短い。付き合いたくない人に付き合っている暇などない。

古典に対してこんな言い方もないですが、『ねじの回転』というのは実にうまいタイトルです。一回転か一回転半かで、内容がまったく異なってしまう。私は一回転半の家庭教師妄想説をとりたいです。でないと単なるオカルト幽霊譚になってしまう。と、言いたいところですが、一回転半の場合、ラストの説明に困るのです。語り自体が手記で、その手記を受け継いだ人もすでに故人。どこを信用するかはもはや趣味の問題なのかも知れません。

ガリア戦記

7月 5th, 2005 § 0 comments § permalink

有史以来の地歴ブームが鯖書房を席巻していますが、ヘディンに続いてはカエサルがきました(脈絡などありませんよ)。

そう、カエサルはいい。モグラ叩きのようにぽこぽこ出てくるガリーをもれなくそつなく容赦なく叩きつづける。淡々と。だからカエサルはいいのだ。

引っかかったのはガリアの部族や風土を紹介する次の一節。

鹿の姿をした牛がいて、その両耳の間の額の中央から一本の角が、我らに知られている角などより高く真っ直ぐに生えている。その頂点は手か枝のように大きくひろがっている。[VI – 26]

鹿の姿をした牛を、鹿ではなくて牛と呼ぶのは何なのか。なぜ鹿と呼んではいけないのか。犬の姿をした猫は、犬ではなく猫なのか。象の姿をしたウワバミは、象ではなくウワバミなのか。土星人の姿をした火星人は、土星人ではなく火星人なのか。マンゴープリン味のキャラメルコーンは、マンゴーなのかプリンなのかキャラメルなのかコーンなのか!

注釈によれば、この節を含む前後数頁は、後世に挿入されたものだとする説もあるという。もしそれが正しければ、いよいよもって分からない。誰が、そして何のために、鹿を、牛を、マンゴープリンを…。

地歴ブームの思わぬ落とし穴といえよう。

苦行リンク

7月 5th, 2005 § 1 comment § permalink

石上三歳さんのページにリンクさせていただきました。半世紀をかけたプロジェクトです。

岩波新書の悦楽(http://iwanami-shinsho.seesaa.net/)

レッツ!苦行!

Where am I?

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