論理哲学論考

6月 26th, 2005 § 0 comments § permalink

思うに、無意味とナンセンスの違いをしっかり把握しておけば、かなり理解できるのではないかと。

無意味は例えばトートロジー(pならばp、かつ、qならばq)とか矛盾(pかつpではなく、qかつqではない)とかのことで、トートロジーと矛盾はそれ自体何も語らないことを示しています。というのも前者は可能な状況をすべて許容し(p、qが真だろうが偽だろうが恒に真)、後者はまったく許容しないからです(p、qが真だろうが偽だろうが恒に偽)。[4.461-4.462]

トートロジーは論理空間の全体を現実のためにゆずり、矛盾は論理空間から現実を完全に排除するため、現実を規定する上ではどちらも無意味ではありますが、ナンセンスではありません。ナンセンスは論理空間の向こう側にあります。 世界とは論理空間の中にある諸事実のこと、世界は諸事実の総体なのです。[4.463,序]

つまり「論理空間⊃世界 = 事実のすべて」ということになりますね。「世界として成立したもの + 成立しなかったもの」の外側にあるのがナンセンスなのです。訳注の例示を援用すると、「論理空間:富士山は地球上でいちばん高い」「世界:富士山は日本でいちばん高い」「ナンセンス:富士山は2で割り切れる」ってことになりますね。

なんだけど。富士山は2で割り切れうるんじゃないの? 富士山が「静岡と山梨の間にそびえる件の山」ってことは「世界」でいいと思うんだけど、富士山が「4である」ってのは「論理空間」じゃなくて? と思っちゃうのは「名」を誤解しているから? 富士山ってのはあくまでもアレそのもののことであり、富士山っていうシールのことではない? しっかり把握できぬ。

もうちょっといろいろ読んでみるか。ひとまず保留します。

いずれにせよ、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」ということは、言語が引いた限界線、その外側はナンセンス。世界がいかにあるかについては、たいした問題ではなく、世界があるというそのことが神秘なのです。だから、神、という意味での神が降臨することはありえず、また、神について語ることは、「神は神自身と1以外に約数を持たない」と語るのと同じぐらいナンセンスなのです。[6.432-7]

あぁでもやっぱり。最後にそれ(ヴィトゲンシュタインの命題)がナンセンスであると気づく[6.54]ってどういうこと。

ニセ記憶はいかにして芸となるか

6月 21st, 2005 § 2 comments § permalink

どうでもいい記憶なんてものは存在しない、とフロイトは言う。「憶えていること」について、なぜそれを憶えているのか必ず意味がある、と。以下、「隠蔽記憶について」(『フロイト著作集 第6巻』所収)より。

幼時記憶を語る38歳の男性。

野原が見える。たくさんの黄色い花が咲いている。明らかに普通のタンポポだ。野原の向こうには農家があり、農婦がおしゃべりをしている。
野原では三人の子供が遊んでいる。幼い頃の私と、年上の従兄とその妹。妹の方は私と同い年。
私たちは黄色い花を摘んでいる。いちばん美しい花束を持っているのは少女で、私と従兄は彼女の花をひったくる。彼女は泣きながら農家のほうへ駈けて行き、農婦から慰めに大きな黒パンをもらう。
それを見て私たちは花を投げ捨て、農婦の元に駆けて行き、同じようにパンをねだる。もらったパンは記憶の中ではとてもおいしく、幸せのうちにこの場景は終わる。

この男性は、実はフロイト自身である。一見、何でもない(花を奪う、パンをねだる)幼時記憶が彼にしつこくつきまとっていたのはなぜか。

この記憶は幼児期から繰り返し思い出されたものではない。17歳のときに彼の故郷であるモラビアの小都市(フライベルク)を訪問したのがきっかけとなり、思い出されるようになった。彼は両親の友人であったフルス家に泊まるが、その家の娘で幼なじみだったギセラと再会し、彼女に恋をしてしまう。しかし、彼は一言も話しかけることができなかった。そこで彼は、もし自分が幼少の頃に故郷を去ることなく、ギゼラとともに育ったならば、彼女と結婚することができていたのではないか、という妄想を抱くに至る。

この初恋話は後に、腹違いの兄であるエマヌエルの娘、パウリーネとも結び付く。

フロイトの父とエマヌエルは、フロイトを実業に就かせるために、パウリーネと結婚させる計画を持っていたが、その思惑に反してフロイトはウィーンで医学生となる。ウィーンでの貧乏生活。彼はやがて、パウリーネと結婚して実業家になるというすでに失われた機会を妄想するようになる。

二つの空想が投影され、一つの幼時記憶が生まれる。ギゼラから奪ったタンポポの黄色は、パウリーネが好んでよく着ていた服と同じ色だった。もし故郷に残ってギゼラと結婚していれば…。父の計画どおりにパウリーネと結婚していれば…。つまり「花を投げ捨ててパンを手に入れる」というのは、「学問を投げ捨てて実業家になる」ということの偽装である。

そうなると例のタンポポは幼時の記憶ではなく、彼の空想に過ぎないのではないか。

そもそも記憶の陳述に保証というものはない。しかしフロイトは、この記憶は本物だという気がしてならないと言う。

彼が無数にある場景の中から黄色いタンポポを選んだのは、それが彼にとってはギゼラとパウリーネという二つの空想を述べるのに最も適していたからである。

記憶は何でもかんでも呼び出すのではなく、与えられた印象の中から一定のものだけを選択する。その選択基準が幼児と大人とでは全然違うように思われるが、必ずしもそうではない。幼時記憶にどうでもいいようなものがあるのは、実はある「ずれ」の結果なのである。どうでもいいような幼時記憶は、他の本当に重要な印象の代用に過ぎない。そしてこの、どうでもいいとしか思えないような幼時記憶を、フロイトは「疑似記憶」と呼ぶ。

やっとたどり着きました。この「疑似記憶」の「ずれ」が、これと似ているのではないか、という話です。

つまり、本当に大事なことは隠蔽されている、ということです。

ど忘れにせよ疑似記憶にせよ、想起行動の故障という意味では同一の行為です。では、なぜ、故障するのか。そこに抑圧があるからです。いや、ここで、抑圧って言っちゃうから、精神分析はあやしくなるのですね。単に、「出てこない」でもいいと思います。

この「出てこないもの」を出す技術。そしてなぜ「出てこない」のかを分析する技術。これの取っ掛かりとして、フロイトは「夢」を持ち出します。夢が荒唐無稽であるにも関わらず、妙に現実と呼応するのは、現実を隠れみのとして、出したくないものを隠そうとするからです。寝ながら笑っている人は、みている夢ではなく、隠そうとしているものがおもしろいから、笑っているのです。その隠そうとしているものを好きなように出すことができれば、芸ですね。それは芸ですよ。

というわけで、「精神分析は芸なんです」が今日の結論でした。

トリストラム・シャンディ (下)

6月 21st, 2005 § 0 comments § permalink

未完だというのは訳者による前書きにあったので知ってはいたのです。が、よりによってあんなところで終わるか。牛で終わるか。モウケッコウ、って駄洒落か。

結局トリストラムは単なる語り手に終始して、主には叔父トウビーの恋物語でした。総天然色のトウビーと存外に世間擦れしている伍長のコンビは絶妙ですね。向かうところ敵なしです。

で、下巻の読みどころは、ボヘミア王とその七つの城のお話。ある種の基本です。ドリフ的なものに通じるかも知れません。

返す返すも未完が惜しい。トリストラムの生涯がちっとも出わってこない。他のキャラクターも活かす余地が残ってしまった。漱石でもジョイスでも誰でもいいから、続きを書いてくれないかなぁ。

トリストラム・シャンディ (中)

6月 18th, 2005 § 0 comments § permalink

トリストラムがついに産まれました!よね?

スラウケンベルギウスっていう誰やねんって人の話が唐突に始まって、吐かれる科白は「やんぬるかな!」 どないやねんと思いますね。で、「スラウケンベルギウスの物語 終り」ですしね。何なのかと。鼻なんですけどね。

さて、中巻の読みどころはズバリ「白熊」。全文引用したい衝動を抑えつつ部分引用します。トリストラムの父に「いざ必要になったら、白熊の話をすることぐらいできるだろうな?」と問われたトリム伍長の独白。

白熊!はい、よろしい。わしは見たことがあったっけかな?
…それならばわしは白熊の皮は見たことがあるだろうか? 絵に描いた白熊は見たことがあるだろうか?ー白熊を書いた文章は? 白熊の夢も見たことがないだろうか?…
ー白熊は見る価値があるのか?
ー白熊を見ても罪悪にはならぬのか?
白熊と黒熊とどっちが善良なのか?

よくよく考えると、僕も白熊を見たことがない。だけど、白熊黒熊どっちが善良の問題については、一家言もっといたほうがいいかもな。

トリストラム・シャンディ (上)

6月 15th, 2005 § 0 comments § permalink

とりあえず、トリストラムはまだ産まれていません。

表題を直訳すれば『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』のようですが、正確には『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見とその周辺』といったところ。「意識の流れ」ではなくやはり「物語の流れ」、意識は通常このようには流れません。ただし、物語は理想的に流れます。他の物語たちが断念せねばならなかった支流をもあきらめることなく。

読みどころ満載ですが「悪態」の蒐集に関する下り(とそこに至る流れ)と「鼻」の仮説に関する考察(とそこに至る流れ(とそこからの流れ))については特に拘泥したいところです。「鼻」については上巻(原書では第三巻)では収まりませんでした。おそらくこのまま結論は出ないと思いますが、「鼻が妄想を生むのか、妄想が鼻を生むのか」の問題についてはゴーゴリが詳しく論じているところですので、いずれまた、ねっとりと。

トーノ・バンゲイ(下)

6月 12th, 2005 § 0 comments § permalink

下巻こそ「トーノ・バンゲイ」炸裂を期待したのですが、実際のところは「ジョージ・ポンダレヴォーの恋愛論」じゃないですか。しかも「失敗例に学ぶ」とか何とか吹き出しでもつきそうな。

上巻の終わりあたりで「トーノ・バンゲイ」からは身を引いた「私」は、徐々に空中飛行の実験に身を入れはじめます。それがまさか、あのような形で実を結ぶことになろうとは。さすが。SF作家の面目躍如です(関係ないか)。

余談。下巻を読み進めていくうちに、妙な違和感がふつふつと。いや、むしろ上巻にはあった違和感がなくなってしまったような気が…。何だろうなぁと思ったら、字体でした。上巻は旧漢字だったのが下巻は新漢字になっているのです。奥付を見てみると、上巻の初刷が1953年なのに対し下巻は1960年。翻訳者いわく「公私のさまざまな事情により」とのことですが、そんなときこそアレの出番ではないですか。

「タ〜イ〜ム〜マ〜シ〜ン!」

ぴかぴか。

トーノ・バンゲイ(上)

6月 9th, 2005 § 0 comments § permalink

『トーノ・バンゲイ』というよりも『ジョージ・ポンダレヴォーの半生(と意見)』というような具合。

一読しての奇妙に思うのは、トーノ・バンゲイ(とその周辺)非現実ぶりに対する、「私」の幼年期から青年期における生活の妙な現実味である。

私は叔父に会うとすぐに、なるほどこれはテディだと思った。…(中略)…それをほかの言葉で言いあらわすのは、なおさら難しいことである。

私はテディなど知らないが、「私」の「テディ的」という言葉には、完全に同意する。また、「私」の恋愛における失敗と後悔には、声をあげて頭を抱える。そんな種類の感情移入が「私」にはある。いや、それは感情移入ではなく、単純な読書体験における「なぞりたい」という欲求に過ぎないのかも知れない。傷口にあえて触れたい衝動のようなものである。

肝心の「トーノ・バンゲイ」については、まだほとんど語られない。いかにして「私」がいんちきと呼んで憚らない「トーノ・バンゲイ」と関わることになるのか(他でもない恋愛と結婚が原因となるのであるが)、そのような周縁的事実の効果が、後半の読みどころと思われる。妙な現実味と説得力がどこから漏れでているのかも、あわせて確認したい。

暴力批判論 他十篇

6月 5th, 2005 § 0 comments § permalink

暴力における目的と手段との問題。暴力を手段として論じる場合、個々の具体的な暴力がどんな目的で用いられるかが問われればよいことになります。正しい目的に用いられる暴力は正しい。つまり同じ「殺人」という行為でも、例えば強盗殺人は正しくないけど、死刑は正しい、などなど。

ただしこれでは、暴力が原理として倫理的であるかどうかについては、解決できません。暴力批判論としては、手段そのものの範囲内で決着されなければならないのです。そこで暴力を機能として捉え論じるのがベンヤミンの「暴力批判論」です。

暴力には法を措定し、法を維持する機能があるとベンヤミンは言います(アメリカもジャイアンも…)。そして、法のかなたに、純粋で直接的な暴力がたしかに存在するとすれば、革命的暴力が可能であることも…(中略)…明瞭になってくるとの結論が導かれます。これは、そんなものは、簡単には存在しないと読めばいいのかな。「暴力的革命」ではなくて「革命的暴力」ですしね。

生命ノトウトサというドグマ(!)に捕われてしまっている私としては、「神的暴力(形態のひとつとして、「完成されたかたちでの教育者の暴力」が挙げられる)」がよく分からない、ギリギリのことを言われているような気がします。現代の法治国家がすでに暴力を含んでいる以上、国家暴力の廃止はすなわち国家の消滅を意味するのでしょうか。21世紀でも、不可能だ、そんなことは。「対テロ戦争」とか、卒倒しそうな概念レベルに、われわれはまだあります。

君主論

6月 1st, 2005 § 0 comments § permalink

マキアヴェッリが「君主かくあるべし」というときには、具体的な君主(メディチ家)が想定されていたわけであるが、もちろん一般論として読めるし、君主でなくても有益なことがある。それはすなわち「他人に頼るな」ということである。

傭兵を使うな、古い有力者を残すな、大前提として、民衆を信じるな。

折しも9条を中心として憲法の改正が論議されている。君主を「象徴」とされた時点で、日本はなめられたわけであるから、どうせ変えるんなら、集団的自衛権などという生ぬるいことはいわずに、軍事費を大増額して(どこぞの国へのODAを中止するのも手)自主防衛路線に切り替えるべきだろう。

まぁ私はそんな「なめられた日本」が好きですし、徴兵なんてことになりそうなら、重い腰上げてばっくれるまでですが、そういうことが現実味を帯びるのはマキアヴェッリを言ってることと無関係ではなさそうです。選択における困難さえなければ、君主政が最も効率のいい政治制度だと思われますし、君主政となれば軍備の増強は必定です。

いずれにせよ、備えあれば憂いなし、どこででも生きていける生活力(生命力?)と、予言としての『君主論』。

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