冥途・旅順入場式

5月 27th, 2005 § 0 comments § permalink

夢というものには基本的に落ちがない。なぜだかは分からないがおそらく落とす必要がないからであろう。その意味においては冥途の各篇は夢的なのであるが「豹」には、見事な落ちがついている。これを予想できる人がいたら挙手願いたい。こんな夢を見たらショックで起きられなくなる。いや、こんな夢は見ない。途中までは夢だと思って安心していたが、豹は夢ではなかった。

対照的なのが「旅順入場式」の遣唐使。何がって、冒頭が、振るっている。

私は遣唐使となって支那に来た。

言うに事欠いて私は遣唐使。どこの誰やねんと。

かと思えば「件」。件になってしまったらしいが予言はできない。そもそもできる気がしない。この無力感は覚えがち。現実にできないことが、夢にできるはずがない。夢は荒唐無稽なものだと、見くびってはいけない。ああ、リアリズム。

注)閒は門構えに月です。

贋金つくり(下)

5月 26th, 2005 § 0 comments § permalink

エドゥワールが自ら執筆中の『贋金つくり』について云々する時、読者は「じゃあこの『贋金つくり』は?」と問いたくなる。ジイドの書いた『贋金つくり』とエドゥワールが書いている『贋金つくり』とはどういった関係にあるのか。

エドゥワールの『贋金つくり』では、ジイドの『贋金つくり』における現実の事件について書かれている(または書かれていない)。ジイドは事件について多くの視点から描いているが、もしエドゥワールが同様の手法を用いて書いているとしたら、エドゥワールの読者に対するジイドの読者の優位性というのはいかなるものになるか。もしかすると、「一歩うしろに下がっている」と感じるこの立場のあやしい「現実感」のみなのではないか。

われわれのうしろには本当にもう何もないのだろうか。簡単にくるっとひっくり返ってしまうのではないか。エドゥワールの中にジイドが登場してしまうのではないか。誰かが糸を引いているわけでもなく(誰もが自分を神だと信じている)、ただこの「現実感」のみが、辛うじて現実を支えているだけなのかも知れない。

伝奇集

5月 21st, 2005 § 0 comments § permalink

当たり前のことではあるが、バベルの図書館は現実存在する。

図書館は真ん中に大きな換気口がありおそらく無限数の六角形の回廊で成り立ち、永遠を超えて存在し、そして周期的である

図書館が存在するのは、それが神により創造され、その神からすべての属性を継承するからである(「すべての」と書いたが、神にとって「すべての」は余計である)。むしろ不完全な司書である人間の方が、存在し難い存在なのであろう(余計なものは不完全であるが、不完全ゆえに余計なものを欲する)。

図書館の存在を否定したいのならば、無限に薄いページの無限数からなる「一巻の書物」を出版する他ないだろう。ただしそれには二つ問題がある。

  1. 薄いページに印刷するという技術的な問題
  2. ただ一冊だけ出版するという商業的な問題

いずれも解決(素材、印刷所、版元の確保)が困難なだけに、図書館の存在が不愉快に思われる。偶然の産物でしかない司書の苛立ちなのかも知れない。

コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇

5月 16th, 2005 § 0 comments § permalink

「続いている公園」は本を読む人なら必ず一度は空想したことがある。たった2ページほどのことながら、活字と非活字とが融合する様を描ききっている。公園はどこにでも続いている。

「夜、あおむけにされて」は夜を眠る人なら必ず一度は体験したことがある。夢にしては妙だった、と思った朝にはもう取り込まれている。支離滅裂な現実はつまり理路整然とした夢の裏側である。

「南部高速道路」は車を駆る人なら必ず一度は走ったことがある。車は人そのものを表すし、そこから生活が始まっても、何の不思議もない。その生活が一転、崩壊するのは疾走。代えがたい爽快感である。

そして最後は火。じっと見つめていると、その炎が世界で何を焼き尽くしたかがみえる。これから何が焼かれるのかも、もしかすると見えるのかも知れない。

最速(当社比)レビュー森新作(θは遊んでくれたよ)

5月 12th, 2005 § 0 comments § permalink

Gシリーズとは何事だ。何の祭りだ。新シリーズはMではなかったのか。100歩譲ってQシリーズだろう。Gなんてどこに出てくるというのか。まさかナベツネではあるまいな。

まぁそれは置いといて。

海月及介が森川素直の息子(または森川本人)であることは、前回のφエントリで実証済みであるが、今回は実証も何も、そのままの解答が載っていた。39ページを見てくださいね。

入口の外に立っていた海月及介が店の中に入ってきた。…(中略)…、彼は…(中略)…素直である。

出た。作者の開き直りとも取れるこの記述。シリーズ2作目にして大ネタをばらしてしまってもいいものか。ずばり的の中心を射貫いてしまった己の洞察の鋭さを呪う。まったく罪深いことだ。結局息子ではなく本人だったということで入れ替わりトリックの解明が今後の興味の中心となるであろう。

肝心の本編であるが、ミッシングリンクものである(本文中にもそのような記述がある。実に深い考察である)。飛び降り男性の額に「θ」、半月後には手のひらに「θ」の女性死体。さらには足の裏に「θ」といった具合で、その後も続々と「θ」事件が発生して、さぁ関連は?自殺?他殺?シリアルキラ?というわけである。詳しくは読んでほしい(何だそりゃ)。

さて、本編が片づいたところで再度Gに関する検証である。誰かの頭文字であることは間違いないとしてさぁ誰かというので、登場人物一覧を見ていて、ピキーン!ヒラメイタ!

郡司嘉治……N大学医学部教授

こ、これだ!GUNJIシリーズ!手術台ディテクティブ!

渦巻く陰謀。不透明な人事。黒幕は誰だ。俺に切らせろ。隣室の密談も聴診器できいちゃうぜ〜。医学部GUNJI教授が、諸手にメスの二刀流スタイルで大学総長へとのし上がる、一大ビルドゥングスロマン!サイもクラゲもメじゃないぜ〜

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贋金つくり(上)

5月 11th, 2005 § 0 comments § permalink

あぁ、フィクションとは何とメタフィクショナルなのでしょう。ジイドが贋金使用事件と少年のピストル自殺という2つの新聞記事に着想を得て、実験的手法で描いた作品 なんて書いちゃうとどうということなさそうですが、この実験的手法というのがすごい。やっとく?やめとく?悩んでると見せかけて実はすでに完了している、このあたり読者の隙を、盲点を、先入観を、容赦なく、見事に突いているといえるでしょう。要注意。虚虚実実、否、虚即是実の手管です。

事実が小説より奇なのは、作者不在だからです。それは小説においても同じこと。小説は事実だから奇なり、なのです。この場合の事実は決して真実ではないのですが…。

つれづれリンク

5月 9th, 2005 § 0 comments § permalink

マサさんのページにリンクさせていただきました。

なんじゃもんじゃ堂(http://nanjamonja.fc2web.com/)

今後ともどうぞよろしくお願いします。

トニオ・クレエゲル

5月 3rd, 2005 § 0 comments § permalink

14歳(これは12歳でも16歳でもいいのだが、便宜上14歳とする)の世界には二つの種類の人間があった。すなわちトニオ・クレエゲルとハンス・ハンゼンである。 この二人の関係は次の言葉により要約され得る。「最も多く愛するものは、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」。敗者というのはトニオであり、敗者判定をするのもトニオであり、そして、残念ながら、ハンスはそういった感情には完全に無頓着である。

16歳(これは14歳でも28歳でもいいのだが、便宜上16歳とする)の世界には二つの種類の人間があった。すなわちトニオ・クレエゲルとインゲボルグ・ホルムである。インゲボルグというのは他ならぬ「彼は、彼はインゲ・ホルムを恋しているのだ。詩なんぞ書くというので、彼を軽蔑しているに違いない、あの金髪の快活なインゲ」のことである。

トニオはトニオでありながら二つの世界のどちらにも安住できないという。こんな種類の問題を人はいつまで抱えることができるのだろう。世界はいつまで許してくれるのか。許すも許さないも結局は、トニオが決めることなのかも知れないが、トニオには決められないことなのかも知れない。

Where am I?

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