形而上学叙説

4月 30th, 2005 § 0 comments § permalink

せっかくのウェブログなので少しは時流に乗ってみようとばかりに「2005年春リクエスト復刊特集!」(地味)。というわけでライプニッツであります。

本書で押さえておきたいのはやはり神様のところです。神は絶対的に完全な存在であるということです。神の業は神の業であるが故に貴いというような考え方はもっとも神を冒涜しています。白でも黒になる式の不可知を軽々しく口にする人ははまずもって偽物です。神の業が優れているのは、業そのものを見れば分かるのです。誰にでも。

神の業とは個体的実体という主語です。宇宙全体を表出する個体的実体です。神によりいっぺんに作られ、いっぺんに滅ぼされる、過去も未来も含んだ存在そのものです。何だか訳がわかりませんね。というわけでいずれ『単子論』に続きます。

2005年春リクエスト復刊特集!ということならスピノザはどうしたと問いたいところですが(短論文と書簡集が出てます)、デカルトスピノザライプニッツなんていかにも近代哲学史の教科書みたいなので、今回はスピノザはスキップします。いずれまたねっとりと。

あと、さらにどうでもいいことですが、ライプニッツよりもライプニツのほうがいい具合ですね。妙な味わいがね。チョコライプニツ。

高野聖・眉かくしの霊

4月 24th, 2005 § 0 comments § permalink

誰が目にも比類ないのは文体にあり物語の嘆美または陰惨たるものその添え物に過ぎず、ただ茫々と読みいるにつけ作者の術中にはまるばかりで。

が、そこはそれ、妙というに取り込まれ茫たる頭ますます茫然としつつ妖女の艶やかなる所作のひとつひとつに溜め息つけば、我は白痴、聖、夢、現の境も模糊模糊に。

日本人で、というのはこの場合、母語として日本語を使う国に生まれ育って、本当によかったと思うのです。つまらない社会の教科書、というのはこの場合、マッチョな歴史物語で飽き飽きさせるくらいなら(ちょびヒゲ描かれるのが関の山だろう)、物語がなくても生きていける力を身に付けさせる方が、よっぽど世とか人とか御国のためになりますよ。何かに依存するのはだらしない。否定しようとは思わないが、だらしない。

『高野聖』の迫力は、物語から離れたところにあるのです。切り離すことはできないけど、文体。

カフカ寓話集

4月 21st, 2005 § 0 comments § permalink

「巣穴」が入ってるってだけで買いです。「皇帝の使者」や「断食芸人」も好きですが、何より「巣穴」です。昨日見た夢です。

自分の作り上げた巣穴を誇りつつも外敵におびえる、それでいて補修作業は遅々として進まず、まったく関係のないことばかりしてしている(忙しいときに限って掃除をしたくなるのに似ています)。こういう人は、一生こういう人のままです。たぶん私(店員K)もそうです。それゆえに感情移入というよりも、同族嫌悪してしまう。

「寓話集」と銘打たれていますが、これはあくまでも「寓話的」だからであり、決して「寓話」ではありません。先にも書きましたが昨日見た夢、夢と現はほぼ同じものです。

完全に思いつきですが、ウェブログはある種の巣穴かも知れません。意味なく拡張して、隙だらけ。

シュルレアリスム宣言・溶ける魚

4月 17th, 2005 § 0 comments § permalink

シュルレアリスムの出発点にして到達点。技法にして完成形。

言語とは、シュルレアリスム的に用いられるように人間にあたえられているものだ。

つまりわれわれはすでにシュルレアリスムなのである。現実を超える必要などない。今、まさに、シュルレアルなのである。

われわれは無意識ではない。シュルレアルは夢ではない。妄想ではない。狂気ではない。秘匿されたものでもない。あなたは、現実において、シュルレアリストなのである。

というわけで、やっときましょう、自動記述。一日三回、毎食後。

ナカタさんがやったこと

4月 13th, 2005 § 0 comments § permalink

ナカタさんに肩入れして読んでみた。15歳の少年田村カフカは行っても行きっぱなしじゃなくて、ちゃんと戻ってくるような気がした。だから安心感があった。でも、ナカタさんはどうなっちゃうんだろう。ただただお話に利用されて終わっちゃうのかなという不安があった。以下、ナカタさんパートネタバレにつきご注意ください。

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銀の匙

4月 11th, 2005 § 0 comments § permalink

幼児期の偽記憶を刺激する。あくまでも偽である。こんな母とかこんな友だちとかこんな先生とかは絶対にいなかったし、こんな科白やこんな道具やこんな風景を見たことなどあるわけがないのだが、もう、ただただ懐かしい。これはつまり本当に懐かしいのではなく、懐かしいという感情を巧い具合にくすぐられているのであろう。記憶力に自信のない人ほど、泣かされるのではなかろうか。

蕎麦饅頭をぱくぱく食べながら、「大往生じゃ、大往生じゃ」と連呼したい。

岩波の

4月 10th, 2005 § 0 comments § permalink

読書部にこのようなコーナを設けました。全部読みます。感想書き尽くします。

ルールとしましては、

  1. 2000年12月31日までに発行された岩波文庫を全部レビューする。
  2. 泣かない。

どうか、長い目で見守ってやってください。

方法序説

4月 8th, 2005 § 2 comments § permalink

この手の試みは最初が肝心なのだと思うが、最初が肝心だと思ってしまう時点で何らかの呪縛に囚われているのであり、呪縛にとらわれているがゆえにこの選択となるのである。近代がまだ(私の)世界を覆っているからであろう。本書は次の一文に始まる。

良識(bon sens)はこの世のものでもっとも公平に配分されている。

人間だれしも慎重に、注意深く、正しく精神を働かせるかぎりにおいて、必ず真理に到達し得るということである。ここで重要なのはただよき精神を持つだけではなく、働かせねばならないということである。

方法的懐疑の結果(私は疑う、ゆえに私は存在する)が本当に真であるのかについては知らない。正直なところどっちでもいいとさえ思う。むしろ、この、デカルトが体験したであろう興奮を追体験できることに、本書の醍醐味はある。駁されようが覆されようが決して衰えることのない、名著だけが持ち得る力であろう。

デカルトが方法の確立後直ちに行ったのは、神の存在証明だった。これは他ならぬ時代の要請である。自分がもしこのような方法を見つけたら、一体何をするだろう。ん〜。

Where am I?

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