半分レビュー『暗黒館』

9月 21st, 2004 § 0 comments § permalink

『暗黒館』半分だけ読んでレビューである。ネタバレしてる恐れがあるので上巻読んでない人は気をつけてほしい。下巻も読んだ人は鼻で笑ってほしい。そして上巻だけ読んだ人には共感してもらいたいところであるが不安だ。一般にワトソン役は読者よりもちょっとお馬鹿さんが望ましいとされるが、私はワトソン役よりもお馬鹿さんな読者だからだ。そもそも今回は誰がワトソンなのか、よくわからない。

まず最初に、読んでない人も安心、誰でも知っている事実を改めて指摘しておこう。長い。とにかく長いのである。が、これは実は重要である。長いという事実そのものが重要になってくるはずである。どう重要なのかはネタ垂れである。

さらに私しか知らない事実を指摘しておこう。「アンコクカン」ということばを普通に変換してみたところ「暗黒館」ではなく「あんこ区間」となった。「あんこ区間」とは、陸上競技のマラソンにおいて、水やスポーツ飲料の代わりにあんこが手渡される区間のことで、これが今回の謎解きにどうかかわってくるのか、下巻のひとつの読みどころといえる。あんこ、マラソン、金メダル。これ即ちミッシングリンクである。

まぁそれはいいとして、以下ネタ漏れ。

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本好きPeopleさんへの参加

9月 14th, 2004 § 0 comments § permalink

本好きPeopleさんへ参加させていただきました。これを機に更なる更新力でもって更新していきたい所存です。よろしくお願いします。

あらためましてサイト紹介をさせていただきますと、鯖、というのは魚です。青いです。塩焼きや味噌煮でいただくとおいしいです。書房というのは書の房です。本がたくさんあるところです。現状ではまだまだ「書房」にはほど遠く、せいぜい「書棚」といったところですので、これを機にサイト名を「鯖棚」(SABADANA.COM)に変更させていただきます。さっそく、ドメイン取得!と思ったのですが、当局の報復がおそろしいので、変更は中止します。

あぁ、でも、どうでしょう。サバダナ。思いつきにしてはよいと思うのですがどうでしょうサバダナ。何かサバンナみたいで野性的ですよね。ワイルドですよね。獲物を狙う黒豹って感じで、うちのサイトイメージにぴったりですよね!

いや、そういう話ではなかった。

ちなみにこちらは鯖書房日記本部(むしろアイス本部)で、こちらが読書本部になります。

実は、よそ様へトラックバックするのは初めてです。ドキドキです。

探偵再登場

9月 13th, 2004 § 2 comments § permalink

新シリーズである。新シリーズであるが旧シリーズ(SMシリーズ)の数年後という設定である。古いキャラクタも登場するが、中心となるのは新キャラクタである。

マンションの一室で密室殺人が起こる。被害者は両手を天井から吊られ、ナイフで刺されて死んでいる。死体発見の状況を映し出したビデオが現場には残されている。そのタイトルが『φは壊れたね』。

まぁそれはいい。むしろそれはいい。本作で問題となるのは探偵役の海月及介である。

海月及介というのは本名だろうか。実は違う。彼の本名は森川及介である。もういいか。言わんでいいか。彼の父は前シリーズ(Vシリーズ)で準レギュラーとして登場していた森川素直なのである。理由はいいか。言わんでいいか。

森川はどちらかというと事件には直接絡まず、事件の周縁で主人公たちと戯れ、寡黙ではあるが的を射ることばを連発していた。その彼が事件にかかわってくると海月及介である。前シリーズでは瀬在丸がズバズバ解決してしまったのであまり出番はなかったが、実は彼もすべての謎を解いていた。解き切っていた。その遺伝子は海月に受け継がれ、本作に至っている。

もしかすると海月は森川の息子ではなく、森川本人かも知れない。それくらいのトリックはありえる。海月大学入学前3年間の空白というのがあやしい。狂言回しである大学院生山吹早月の中学時代の同級生ということになっているが、実はここで、この3年間で、入れ替わりトリックが発動している。森川と海月が入れ替わっている。本物の海月は「海外」のどこかに埋められているのかも知れない。

いや、そもそも大学生や大学院生が10代後半から20代であるという先入見を捨てねばならない。山吹は40代かも知れない。山吹の3歳年下で海月と同級生の加部谷恵美も40代。西之園萌絵は40代後半、犀川は50代である。山吹の担当教官である国枝桃子については「30代」という記述があるのでそうなのだろう。いやぁなかなかどうして。人は見かけによらないものである。

というわけで新シリーズはQシリーズではなく、MMシリーズである。もちろん Morikawa Motonaoの頭文字である。

ちなみに本作における引用はヴィトゲンシュタインである。「語りえぬものには沈黙せねばならない」。はい、すみません。

インスタンスは抽象クラスの夢を見るか

9月 6th, 2004 § 0 comments § permalink

「オブジェクト指向でなぜつくるのか」というタイトルは、いかにも座りが悪い。ふつうなら「なぜオブジェクト指向でつくるのか」だろう。しかし、一読して合点。これは「オブジェクト指向でなぜつくるのか」でなくてはならない。つまり、「なぜ」は「オブジェクト指向」にかかるのではなく、「つくるのか」にかかるのである。作者は、数ある手段の中から「あえてオブジェクト指向を選択せよ」と言っているのではなく、「オブジェクト指向は"表現する"ための手段ではなく、あくまでも"つくる"ためのツールである」と言っているのである。

オブジェクト指向の説明には、現実世界の比喩がよく用いられる。即ち「クラス=種類・分類」「インスタンス=具体的な存在」というものである(「犬」という種がクラスで、隣のポチとか向かいのタローとかの具体的な存在がインスタンス)。このような「集合論的」な考え方は非常にわかりやすいし、それで世界が説明できるようにも思える。が、しかし、このような考え方はあまりにも世界を単純化しすぎており、かつ、古い。プラトンのイデア論とどう違うのか、私には説明できない。

「オブジェクト指向は現実世界を表現するものではない」。あえて作者が主張せねばならないのは、「オブジェクト指向は世界をそのまま表現する」という認識がまかり通っているからに他ならない。作者はそのような説明をしてしまう既存の初心者向け概説書を批判する。オブジェクト指向はあくまでもソフトウエア開発の「技術」であり、また、ソフトウエアは現実世界をそのまま置き換えるものではない、と。この前提から出発すれば、オブジェクト指向に対する幻想に惑わされることはない、と。ソフトウエア開発にオブジェクト指向を利用する上で、この理解は必要不可欠のものなのであろう。

が、しかし。が、しかし、である。そこをあえて、オブジェクト指向は世界であると考えたいのである。オブジェクト指向は現実世界である、という考え方は、あっさり捨て去るにはあまりにも魅力的に過ぎる。ただし、「クラス=種類・分類」「インスタンス=具体的な存在」という理解においてではない。

先の主張は「インスタンス」を「具体的な存在」と単純化してしまったことに問題がある。「具体的な存在」というデリケートなテーマを簡単に扱おうとしてしまったことにある。犬クラスのインスタンスとして生成された隣のポチは、インスタンスがメモリ上にある限り存在を許されるが、このポチの例えば加齢による衰えを表現する手段が「インスタンス=具体的な存在」にはない。「年齢」という変数を持たせればいいようにも思われるが、衰え方はすべての犬に一様ではない。つまり、状態が変化することを変数により表現することは極めて困難なのである。これを解決するには、インスタンスをもっと動的なものにする必要がある。

そこで、ひとつの仮説を提出してみる。むしろ、クラスこそ、具体的な存在なのではないか。具体的な存在をクラスとして表現することが可能なのではないか。例えば、私という存在は、人間クラスのサブクラスである、店員Kクラスであるとする。つまり私というクラスは生成されたものではなく、また生成する主体でもなく、定義され、待機しているのである。そしてそのクラスをもとに生成されるインスタンスは静的なもので、生成されつつ破棄され続ける。インスタンスは連続しているように見えるが、連続はいわばパラパラ漫画に過ぎないのだ(インスタンスが連続せねばならないのは「変化する」ためではなく、「途切れない」ためである)。われわれはその疑似的な動きを意識だとか自我だとか呼ぶのである。

インスタンスは夢を見ない。インスタンスそれ自体が夢のようなものである。しかしそのインスタンスは、インスタンスを生成することのない、いちばん上位の抽象クラスをもどこかに含んでいるのである。インスタンスを見れば、世界が見える。

このような考えはソフトウエア作成とは無縁のものである。おそらく何の利をももたらさないであろうし、オブジェクト指向をバリバリ使っている人は嫌な顔をするだろう。ただ、もし、この世界が終わって、じゃあ次お前作れ、って言われた時にも、オブジェクト指向は強力なツールになるから、覚えておいて損はない。今のこの世界はオブジェクト指向じゃないけどね。世界はそんなにうまくできてないしね。

イエスと商人と断食者

9月 2nd, 2004 § 0 comments § permalink

人は、食べないと死ぬ。
これは紛れもない事実である。もし仮に40日間飲まず食わずで生きている人がいたら、それは奇跡ではなくびっくり人間である。びっくり人間イエス様である。

人は、嫌になったら逃げる。
そう、手に手をとって。いつまでも従っていると思ったら大間違いだ。もし、いつまでも従っているように見えたら、それは従っていることに利があるからである。利ある限りギリギリまで我慢して、臨界点でさようなら。それだけの事実だ。

人は、卑怯な手を使う。
目的を達するためなら卑怯で、場合によっては姑息な手段を用いる。即ち、つまらない嘘を吐き、腕力でねじ伏せる。醜悪であるが事実だし、それで何とかなると思う。思い込んでは逃げられる。逃げられたってめげないだろう。そんな種類の鈍感さが商人には必要である。砂漠には必要である。

人は、言い訳する。
そのほとんどは自分に対する言い訳である。当たり前だ。他人など存在しない。存在するのは敵のみである。敵ではない他人はもはや他人ですらない。敵には言い訳する必要がない。優位な立場や威厳を守るための駆け引きは必要になるとしても。敵を倒せない時の言い訳はやはり、自分に対して吐かれる。優位な立場や威厳はつまり相対的なものではなくて絶対的なものだと言うことだ。

で、結局いちばん感情移入できたのは、言い訳する人だった。

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