ユリイカ

2月 21st, 2010 § 0 comments § permalink

SFだといわれると、SFなのかも知れない。真理にいかほどの価値があるのかという話。

「わたしの死後、この作品がもっぱら詩としてのみ評価されんことを切望」していたことからも、そもそもポオは真理というものを放棄していたことがうかがえる。真理を諦めたのではなく、真理を捨てた。

ポオは直観を、「帰納と演繹に由来しつつもその過程がわれわれの意識に上らないため、表現力を越えたところにある確信」と定義する。ここですでに、捨てている。

神が最初につくったのは、「およそ考えられうるかぎりの単純さの状態にある物質」である。考えられうるかぎりというから考えてみるのだが、それが何をどう意味するのかはさっぱりわからない。世界はいかにも複雑にみえる。単純という概念そのものがすでに神々しい。それは真理よりも神にふさわしい。

私に技術があったら、この作品を映画化したいと思う。とくに太陽系生成の下りはドラマチックではないか。

遠すぎるリアリズム

2月 4th, 2010 § 0 comments § permalink

ある日の午後、操縦係のジプシーとうれしそうに手を振る数人の村の子供たちを乗せて、空飛ぶ魔法の絨毯が工房の窓をかすめた。

というようなことがしれっと書いてあって何ら違和感のないあたりが、リアリティだと思うのです。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはそちらの方を見向きもしないで、こういいます。

「せいぜい楽しませておけ。わしらは、あんなみっともないベッドカバーよりもっと科学的なやり方で、やつらよりうまく飛んでみせるから」

ここでホセ・アルカディオ・ブエンディアが論点としているのは「科学ー非科学」の対立ではありません。「かっこいいーかっこわるい」という価値観の問題なのです。ホセ・アルカディオ・ブエンディアにとって、科学はかっこいいがゆえに正当なのです。でも子供たちにはそんなの関係ない。空飛べりゃ何でもいいんです。魔術が飛んで科学が飛べないのであれば、科学に用はないのです。

そうです。マジックリアリズムのヒントがここにあります。科学は無用なのです。代替物としての魔術もおそらく必須条件ではない。死なないアウレリャノ・ブエンディア大佐も、飛んでった小町娘のレメディオスも魔術じゃない。じゃあ何か、ってそれがわかればノーベル賞なのでしょう。

醍醐寺

11月 21st, 2009 § 0 comments § permalink

またしても半年ぶりですね世界遺産シリーズ第五回、醍醐寺です。京都市営地下鉄東西線醍醐駅から歩いて十分くらい。「地下鉄→大規模商業施設→新興っぽい住宅地→寺」というマニアには堪らない流れです(何の)。

メインは国宝五重塔です。実際、五重塔しか見てません。入場料ケチってません。

最上層には店主(ラスボス)が

最上層には店主(ラスボス)が

暗雲立ちこめてますね。931年建立だそうで、先の戦争(応仁の乱)の禍を唯一免れています。歴史ですねぇ。

お次は弁天堂。かわいらしいですね。1930年築とのことで、ほぼ新築ですね。将来はこういうおうちに住みたいわぁ(はぁと)。

※注:模型ではありません

※注:模型ではありません

さて、最後は亀の画像でお楽しみください。

問題:亀が二匹写っています。

問題:亀が二匹写っています。

はてさて、どこかな?

正解:わかるかっちゅうねん。

正解:わかるかっちゅうねん。

まだ、すこし時間がある

11月 19th, 2009 § 0 comments § permalink

まずはアントニオ・タブッキの「新作」が出版されたことに万歳。そしてテーマはたぶん「死」。寓話はエピローグから始まり、推定主人公ガリバルドは額に銃弾を受ける。「国王、くたばれ!」

続く第一章冒頭でガリバルド(もともとの名前はヴォルトゥルノ。父の死後ガリバルドを名乗る)は父ガリバルドの死に臨む。死とは何か、よくわからないと思っているところで、父ガリバルドが棺桶から起き上がり一晩中、人生とは何かについて息子ガリバルドに滔々と語る。そして死ぬ。死はやはりよくわからないものとして残される。

ちょっとしたヒントは示される。ガリバルド(もともとの名前はヴォルトゥルノ。父の死後ガリバルドを名乗る)の伯父にあたるヴォルトゥルノ(ガリバルドの兄)が教えてくれる。

ある日、クワルトがやってきて、栗毛の馬からおりもせず、戸口から顔をのぞかせた。ヴォルトゥルノは今まで感じたことのない不安を感じた。それは死んだ後に感じるはずの、いやしようのないノスタルジーだった。

死に対する恐れというのはこのノスタルジーなのではないか。われわれは生まれながらに臨死している。それは生きているものはいつか死ぬという死の先取りのみならず、生まれる前は死んでいた、つまり生に先立つ死の記憶をも意味するのではないか。生の反対は死ではない。われわれの生にはすでに幾分かの死が含まれており、生は、生と死の合い挽きミンチなのだ。だからフランス人は言うのだ。さよならをいうのは少しのあいだ死ぬことだ。

あれ?逆か。生れた後に感じるはずのノスタルジーだな、これじゃ。まぁ同じことか。ヴォルトゥルノもエスペリアに、結末からはじまる逆さまの話を聞かせていたというし。

後日談直前の最終章は「ひとの死は、金で買えるものじゃない」。当たり前です。肉屋で「挽肉の肉だけ売ってくれ」って言っても無理ですしね。何が入っているのか、知れたものでもないですし。

六波羅蜜寺

9月 20th, 2009 § 0 comments § permalink

店主のたいへん強い希望により本日は東山区の六波羅蜜寺を訪れました。重要文化財の空也上人立像があります。口から何か出てる人です。

その口から何か出てる人が店主の目的だったのですが、入っていきなり頭から何か生えてる人に出迎えられました。

頭から何か生えている

頭から何か生えている

その傍らにはまたこんなありがたいものが。

回転する石

回転する石

念じながら石を三回転させると願いがかなうとのこと。念じながら三回転させましたが、手を離した瞬間に逆回転がはじまりました。大凶。

さて、本命の口から何か出ている空也上人は、宝物館にいらっしゃいます。重要文化財で撮影禁止のため、残念ながら画像はありません。参考までに公式HPにリンクしておきます(→六波羅蜜寺空也上人立像)。

が。しかし。画像はあまり意味がない。現物に生で接して初めて分かる空也上人の微妙な面立ちがあります。向かって右下から見上げれば、苦しいような困ったような何とも切ないお顔なのですが、左下に回り込んでみると、当惑のなかにもどこか得意げな、自慢たらしいような表情が窺えるのです。これは実際に確認してほしい。口から何か出る、非常に面倒くさい、恥ずかしい、でも少しだけ誇らしい。空也上人の裏腹な気持ちを汲み取ってほしい。目も潤んでいます。恋する乙女のようです。

帰りは四条の弥次喜多で涼しいものをいただきました。

あんみつと宇治金時

あんみつと宇治金時

「ダメ王子」と「シンデレラ」

6月 13th, 2009 § 0 comments § permalink

「各氏絶賛」ということで帯買い、帯読みです。とりわけ、法月綸太郎氏の推薦文。

ダメ男の王子様と、戦うシンデレラ。

起死回生の逆転愛が待ち受ける必読の名作。

さすがとしか言いようがない。これが、作品に対する敬意と誠意ですよ。読書中、何らかの違和感を覚えたら、思い出してください、「ダメ王子」と「シンデレラ」。

私やっとわかりました。私がなぜいつも騙されるのか。フーダニットです。誰がやったのか、そこにばかり注目して足を取られる。いや、殺人事件なんだから、誰かがやってるのです。それは間違いないんだけれども、「ダメ王子」と「シンデレラ」。

そして私は第九章を二度読みました。序章を三度読んでからもう一度終章を読んで泣きました。

以下、ネタバレではなくネタズレなので追記にします。

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高山寺(feat.神護寺)

5月 4th, 2009 § 0 comments § permalink

半年ぶりになりました世界遺産シリーズ、四回目は高山寺です。ゴールデンウィークの観光客で盛返る京都駅から、盛返りを尻目にバスに乗ります。JRバスはじめてです。高雄フリー乗車券というのが発売されていたので慌てて購入です。往復1000円のところが800円になります。フリーダムです。

前回訪れた龍安寺仁和寺前を通過し、福王子の交差点からさらに山あいへと。終点が栂ノ尾、高山寺です。着きました。降りました。便によっては周山まで伸びてますので注意です。

何かと後ろ暗いところのある鯖家ですので、寺へは裏参道から侵入します。何らかの特別拝観は完全スルーで、敷地奥へと進みます。いろいろとワンダーでした。

まず最初のワンダーが、これ。

謎の建造物

謎の建造物

宗教は宗教でも、何とかサティアン系の。入り口がどこにあるのかわかりませんでした。

で、足あと。何の予兆もなく。

足あと

足あと

ハリウッドとかにあるあれと同じかも知れませんが、誰のものかはわかりません。それと、なぜ賽銭。

そしてやっぱり鳥居。どこにでも鳥居。

市川崑監督

市川崑監督

ものすごい鮮やかな朱色なんですよ。猟奇みたいな。横溝みたいな。何の趣向で。

階段があって、上ったところに柵がある。

行き止まり?

行き止まり?

何かと思えば。

火の用心

火の用心

そう、火の用心。

戸締まり用心

戸締まり用心

一日一善。

延々と

延々と

さて、せっかくのフリーダム切符、存分に使わねばもったいないということで、高雄でも降りてみました、神護寺です。階段を清滝川まで下りてまた上る。ぜえぜえ。

ちょっと休憩

ちょっと休憩

誰も来ないようなところに和気清麻呂の墓があったり、

隠し墓

隠し墓

大変な絶景があったりしました。かわらけ投げはここが発祥だそうです。

清滝川

清滝川

実によい眺めでした。「この先☆近道♡絶景ポイント」なんていう嘘くさい立て看板があったりして、「ぜっけぇ?ほんとにぃ?」などと高を括っていたのですが、これはまさに超絶景色でありました。

かわらけちょっといい話

円盤状のかわらけ、ついついフリスビーのように横から投げたくなってしまいますがNGです。ノー GOOD です。ふつうに上から、オーバースローしましょう。力を抜いて腕ふりましょう。手から離れて2秒くらいは縦向けのままですが、そこから徐々に水平になって、きれいな弧を描いて飛んでいきます。ほんとうです♡

帰りは立命館大学の前あたりで、えらい渋滞に巻き込まれました。金閣寺へ抜ける道が完全にふさがっていた模様。JRバスは乗り捨てて、わら天神から市バスを拾いました。ゴールデンウィークど真ん中お疲れさまでした。

現存しない...

現存しない...

期待されることは必ず起こる

4月 8th, 2009 § 0 comments § permalink

ナイフ投げ師ときいただけで、これはもう、刺さるしかないのである。

ナイフ投げ師ヘンシュが私たちの町に立ちよって土曜の晩八時にただ一度だけ公演を行うと聞いたとき、私たちはどまどい、自分の気持ちもうまくつかめなかった。

嘘である。ナイフは刺さるのである。それ以外はありえない。欲望ですらない。事実が、ただ眼前に提示されているのである。その唯一の期待にミウハウザーはいかに応えるか。ナイフ投げる、刺さる、ミルハウザー。これに優る快楽が短編小説に見つかるか?

同様に、気球飛行ときいただけで、飛び降りたくなる。パラダイス・パークときいただけで地獄である。夜の姉妹団ときいただけで、いかがわしい秘密に塗れた少女たちの儀式でしかないのである。

夢ではない、偽ではない虚でもない。魔術という名の現実に、圧倒的な迫力に、ただただ飲み込まれるばかりなのである。

追記的に書いておくと、「ある訪問」はどうしようもなく遣る瀬無いよ。こういう類いの幻滅というかおぞましさというかある種の愛情は年を取れば取るほど薄まってはいくもののなくなることはない。たぶん。時々思い出す。で、「なんでそうなるのかな」と口に出してみたくなる。

めんどくさい

4月 4th, 2009 § 0 comments § permalink

トロイの馬とかもう本当にうざったい。こういう馬いるよなぁいるいると思わせるあたりが堪え難い。「さあさあ、いいですか。有名な町といったら? ほらっ、ほらっ」…本気で勘弁してほしい。

アリスがフランスに行くとかもう考えられない。不思議の国にでも行っときゃいいのに、よりにもよってフランス!そしてnnnnnnnnn!そりゃそうだろうよ。そうなるだろうよ。

揚げ句の果てに「夢の話をたっぷりと」と。「当然ながらこれらの夢は…」などと得意満面で。お前は誰だ。何様のつもりだ。夢の話だとふざけるな。

そもそも、ウリポからしてが面倒くさいのだ。こんなことをいう。

シャルボニエ 処理が施されると、確かにシュルレアリスム的でしたね。

クノー ええ。しかしそのことには何の興味もありません。我々はシュルレアリスムを実践しているわけではないのですから。見かけはシュルレアリスム風かもしれませんが、用いた方法は違う。ここがとても重要な点です。

シュルレアリスムは属人的だ。ある程度の天才が自動記述するから、ある程度のすばらしい作品が生まれる。しかし、S+7法はそうではない。誰がやっても同じ結果になる。つまり、方法を正しく用いれば、そこそこの傑作が書ける。面倒くさい。非常に面倒くさい。だがこの面倒くささが、快楽なわけだ。コンピュータによる自動化などありえない。プチプチを雑巾しぼりで潰すようなものだ。辞書を引く面倒を喜びたい。いちいち満悦したい。こんなに面倒なものが遊戯であるはずがない。作業だ。ただただ反復する作業だ。凡人のために用意された手を動かす作業なのだ。

でも、結局ウリポは幾人かの天才と出会ってしまった。僥倖だといわざるをえない。

とまどい

2月 14th, 2009 § 0 comments § permalink

店主から支給されました。

色とりどり

色とりどり

これは…もしや…

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