鯖書房 » 岩波文庫部 » 赤版 » イギリス文学 » ジョイス作、結城英雄訳『ダブリンの市民』
何を置いても「アラビー」。清兵衛と瓢箪で私が勝手に期待した愛が、19世紀末のダブリンにありました。
バザーに行けないという女の子に対し、少年特有の照れからそっけない態度をとりつつも、「もし行ったら、何か買ってきてあげる」と、請け負う「ぼく」。この時からアラビーという名のバザーは彼にとっての至上命題となる。しかし。アラビーは遠い。物理的にではなく身体的に遠い。叔父はアラビーの価値に気づかないし、時限は刻一刻と迫る。アラビーの価値可能性を仕方なしに悟った叔母の援助により何とかアラビー行きを実現するものの、結局知ることになるのはアラビーの無価値性だった。少年ゆえの無知と無力によるあわれ。
「対応」のファリントンや「痛ましい事故」のミスター・ダフィーや「死者たち」のゲイブリエルも確かに哀しい。しかしそれは無知ではなく無理解ゆえの哀しさなのです。いや、むしろ痛い。共感して戦慄する種類の痛みです。痛ましいのは事故じゃなくてお前だと突っ込まれうる。突っ込まれれば目が覚める。つまり、気づきうるのです。しかし、アラビーの「ぼく」は、ただ知らされるだけ。知らなかったことを知らされるだけ。知らされてそこに残されて、結局は流されるのです。あえて言うなら、ここに萌えが存在します。
グッとくるのです。
Posted at 2005. 9.29|コメント(0)
