鯖書房 » 岩波文庫部 » 赤版 » ギリシア・ラテン文学 » ブルフィンチ作/野上弥生子訳『中世騎士物語』
『ギリシア・ローマ神話』と同じ著者/訳者だとは思えない容赦のなさです。
(p. 25) 物語のできる最初の形は粗野な詩の形である。物語が王侯騎士の饗宴の席で歌われ誦されたのはそういった形であったと想像されている。
散文の物語が現れて来たのは、13世紀も終りに近い頃であった。それらの著述は、先ずもって、作者が実はそこから材料をとって来ている種本を否定したり、けちをつけたりすることで始まるのが常であった。物語は皆正史だと思われていたのだから、もし散文の物語の作者たちが、自分たちは実は遊歴詩人の写字生に過ぎないなどと言おうものなら、たちまち信用を失墜したであろう。反対に、彼らは一般に流布している詩は誤りだらけであって、某々騎士の正真正銘の歴史を、彼らはラテン語、ギリシア語あるいは古代ブリトン語、アルモリカ語の原典から翻訳したのだと述べた。ただし、その原典なるものは彼らの断言の中にだけ存在するものなのであった。
これは読みようによってはたとえば
散文の物語の作者→現代版の異聞(異議申し立て)作者
遊歴詩人→先に作ったひと
信用を失墜→書く理由の消失
原典→真理
などと置換され、生半可な「書く意欲」を踏みつぶすには格好の言い回しではないでしょうか。
たぶんこういった牽制のようなことは言葉を換えていろんな人が言っていて、それらをものともせずに書くのはどういう場合か、と推測すれば、おそらく人の話なぞ聞く耳を持たないか、あるいは書かねば死ねないくらいよほどの怨念を抱えているか、あとほかにはどんな状況がありうるか…
強制されないと日記すら書く気にならない者にはもうよくわかりません。
ところで序説はあれこれと面白かったものの、肝心の騎士物語本文はというと、読み進んでも読み進んでもいっこうに登場人物たちの区別がつかず、半ばを過ぎる頃には「せめて挿絵でもあれば…」と弱音を吐きました。
これまで、挿絵というのは読み手の想像を限定させるものだと思っていましたが、挿絵の助け無しには人物がまったく像を結ばない事もありうる、とはじめて知りました。
ひょっとすると、このジャンルというか世界観が、それだけ私には向いていないということなのかもしれません。
Posted at 2007. 3.22|コメント(0)
