鯖書房 » 岩波文庫部 » 赤版 » ギリシア・ラテン文学 » 畠中尚志訳『アベラールとエロイーズ』
(p. 330 アベラールからエロイーズへの第八書簡) 世には賢明な節度ということを忘れ、自分の収入が少ないのに多くの家族を持つことを得意になっている人々がいる。彼らはその家族の世話が困難となるにつれて、恥じらいもなく物貰いをしたり、自分の要る物を他人から暴力で奪ったりする。方々の修道院の主脳者たちにしばしばこれに似た人々が居るのを我々は見ている。彼らは修道士の数が多いのを誇り、善い息子たちを持つことよりは多くの息子たちを持つことに努め、多数の修道士の間に長と仰がれることを偉いことに思うのである。彼らは人々を自分の支配下に引き入れたいばかりに、困難な生活を予告しなければならない立場にありながら楽な生活を約束し、何らの試練も経ずに無造作に人々を収容する。だから後になって彼らは、これらの人々を、容易に背教者として失ってしまうのである。
ここで言われる二方が、互いに「もうちょっと先を考えて行動しろよバカが」「おまえこそ、おためごかしを言うな偽善者が」と罵り合う様はパッと浮かんだのですが、目くそ鼻くそだと括る発想は…たしかに一段抜けた視点ではあるかもしれません。しかし。
物盗りしたり信者から見捨てられたりする人よりも、子供を売り払ったり信者を鉄砲玉扱いする人のほうが、そのロクでもなさかげんにおいてずっと始末に負えないと思うのですが。
いやそれだけの違和感ではありませんでした。
この「抜けた」感じ、これは、不穏です。どうにもひっかかる。
「アホいうやつがアホなんや」という視点が足りないような気がするせいかもしれません。
端から見た状況はともかく、当事者ふたりの真面目さかげんは一貫しています。
なぜここまで息を抜かずにいられるのか不思議なほど。
しかしそれにしても、引用がとても多いです。
後半(第6書簡以降)になるともう地の文(手紙本文)より聖書からの引用の方が多いのでは。
さてこれは中世という時代ゆえの傾向なのかどうか、ゆっくり確認、と思ったら岩波文庫に中世ものは本書以外あと1冊しかない。
いかになんでも少なすぎでは…まさかこの少なさも時代の特性なのでしょうか。
Posted at 2007. 3. 6|コメント(0)
