KAMISAMA enjoys the game
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※注)本投稿の投稿者は私店員Kですが、内容については店主の解釈によるものです。私自身はありふれた感想しか抱きませんでした。正直、その発想はなかったわ。
「神様ゲーム」のGoogle検索結果からもわかるように、すでに数多くのレビューがあり、2006年版「このミス」5位ということもあって、議論し尽くされている感のある本作ですが、違う。違います。誰もが本作品の著者が麻耶雄嵩であるという事実を忘れているかのようです。主たる議論の対象となっているのはあれかこれかの二択ですが、違います。それは問題を見誤っています。
また、本作が講談社の「ミステリーランド」という子ども向けの体裁を取ったシリーズに収められていることから、「子どもに読ませられるか」ということが論点になりがちですが、それもミスリードです。麻耶雄嵩が子ども向けでないことは初めからわかっているはず。なのになぜあえて「子ども向け」なのか。そこを注意深く検証することによっても、正しい読みが導かれます。
それからタイトル。「神様ゲーム」。ゲームをするのは誰か、ということです。
以下ネタバレです。
↑ やっぱり読まない(ネタバレ閉じる)
このお話の主人公は誰か。それは語り手「ぼく」である黒沢芳雄です。では、本作における黒沢芳雄の役回りは何か。それは本作で死んでしまう人物を見ていけば明らかになります。
ひとりめ、岩淵英樹。ぼくの親友。
ふたりめ、山添ミチル。ぼくの憧れ。
さんにんめ、黒沢律子。ぼくの母さん。
もうわかりますね。ぼくは被害者です。加害者は言うまでもないでしょう。神様である鈴木太郎です。
「神様ゲーム」の英訳には ''God's truth'' が当てられています。また、本文中にも「神様は間違えない」ということばが再三再四登場します。素直な読者、特に純粋なミステリ読者はこれに騙される。
神様にとっては「正しい」とか「間違い」とかは、どうでもいいのです。なぜなら神様は「絶対」だからです。「正しい」とか「間違い」とか、そんな次元の低いことに興味はないのです。神様鈴木太郎が真実を語っているとすれば、それはただ次の一点でしょう。
「でも神様がどうしてここにいるんだい。」
「遊びに来たんだ。きみは知らないだろうけど、神様は退屈なんだよ。」
つまり『神様ゲーム』は、退屈な神様がゲームの一環として、一少年の大切な人を次々と奪っていく、そういう救いのないお話なのです。「誰が」「何のために」「どうやって」という、人間にとっては重要な問いが無効になっていく、そういう類いの「ミステリ」小説なのです。
ここで問題となるのは「子どもにこのお話を読ませられるか」でしょう。しかしそれは倫理や教育の問題ではなく、もっと単純な「可能かどうか」の問題です。すなわち「子どもにこのお話が理解できるか」ということです。
本作品は”ミステリーランド”のために書き下ろされたものです。
ミステリーランドとはどういう趣旨か。
かつて子どもだったあなたと少年少女のための
このような冠に、読者は欺かれます。「子ども向け」ということで読者は、本書が「純然たるミステリ」であることを疑わないからです。トリックが「子ども向け」なのも、作者によるトリックと読むべきです。そう、忘れてはいけない。この作品の作者は麻耶雄嵩です。『夏と冬の奏鳴曲』を書いた麻耶雄嵩なのです。正しいとか間違いとかには意味がない(もっと具体的に言うなら、犯人はお父さんとかお母さんとかではないということです)。このミステリはミステリ自身に罠を仕掛けるものだからです。
ミステリを、ミステリにたいするミステリとして読むためには、いくらかの経験が必要です。子どもにはその経験が不足しています。「子どもにこのお話を読ませられるか」というのはそこなのです。充分に楽しめない恐れがある。非常にもったいないことです。人生の損失と言ってもいい。
結論。『神様ゲーム』は「ミステリーランド」というシリーズさえもトリックとして利用した、アンチミステリである。
最後に若干気になるのは、鈴木太郎は神様か、ということでしょう。店主は、「鈴木太郎は子どもだ」と言いました。「子どもの嫉妬による犯罪だ」と。私は鈴木太郎は神様だと思います。神様というものがあるとすれば、それは退屈だろうからです。まぁ、いずれにせよたいした違いはなく、定義とか趣味とかその程度のことなのでしょう。
Posted at 2006. 8.27|コメント(2)
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神様ゲーム
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