世界の中心で、カカアは叫ぶ
鯖書房 » 読書部 » 日本の小説 » 田中小実昌,自動巻時計の一日,河出文庫
いきなり、
やはり、なにかハッキリさせたいものが、あるんだろうか?おれ自身にも、わからない。
ときたものである。
次に、「しかし、」ときて、さらに「ともかく、」と続く。たぶんもうこの時点で(まだ一頁も進んでいない)、読まない人は読まないだろう。
朝おきてからの出来事を特におもしろくもなく並べていく。「おれ」は駐留軍の施設で、検査技師のようなことをしている。作業の内容について詳しいことが書かれているが、詳しいことはほとんどわからない。ただ、分からなくても読める。
「おれ」は通勤途中駅へ向かう道のりや電車の中で、同じく通勤(または通学などなど)途中であろう人を観察し、あれこれ想像する。屈強そうな体躯、頑固そうな顔の男は土方をやっていて、休憩時間には聖書を読んでいるだろう、職場ではもちろん浮いているし、教会に行っても汗臭いのを嫌がられているだろうとか、たばこをふかして歩いている30半ばの女はGIの恋人がいるだろう、週末にいつもハイヒールなのはデートだからだろうとか、本当のところはもちろん分からないが、たいがい当たっているだろうという。もちろん確かめる術はない。
「おれ」の翻訳してる小説が、ところどころ挿入されるが、これも取り立てておもしろいものではない。何か教訓めいたことがあるわけでもない。
やっても、やらなくても、そんなことはどうだっていい。もっとも、どうでもいいことばかり、こうして書いてきているんだが。
そうなのである。どうでもいいのである。ここから読み取れるのは、個々の事実ではなく、「おれ」の他人を突き放す態度である。そこには「カカア」や「上の娘」や「下の娘」も含まれる。
突き放すといっても我関せずというのではなく、他人は他人だからわからない。あれこれ想像はできるが分からない。分からないから分かりたいかというとそうでもなく、結局のところどうなのだろう。「おれ」はどう関わりたいのだろう。
おれにとっては、このおれは、いくらか述語の選択ができる主語のはずなのに、なぜ目的格にしてしまうような努力をするんだろう?こうして、だんだん、死んでいっている。
寒い冬の夕方に「道をあるいている人たちを、けっして寒そうには見ていない」ことに気がつく。それがつまり、世界の有り様なのだろう。中学生の「おれ」が電車の窓から外を見ているときに、突然自分とは離れた世界があることを認識するのも同じことだ。他人は他人として理解不能のままあり、世界は無関係でも回っている。自動巻時計は巻かれもしないのに自動する。
世界に中心なんてない。100パーセントの説明もない。ただ、カカアの機嫌がいいのは、悪いことではない。今日のところはもう、寝てしまうとしよう。
Posted at 2004. 10.27|コメント(0)