ニセ記憶はいかにして芸となるか
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どうでもいい記憶なんてものは存在しない、とフロイトは言う。「憶えていること」について、なぜそれを憶えているのか必ず意味がある、と。以下、「隠蔽記憶について」(『フロイト著作集 第6巻』所収)より。
幼時記憶を語る38歳の男性。
野原が見える。たくさんの黄色い花が咲いている。明らかに普通のタンポポだ。野原の向こうには農家があり、農婦がおしゃべりをしている。
野原では三人の子供が遊んでいる。幼い頃の私と、年上の従兄とその妹。妹の方は私と同い年。
私たちは黄色い花を摘んでいる。いちばん美しい花束を持っているのは少女で、私と従兄は彼女の花をひったくる。彼女は泣きながら農家のほうへ駈けて行き、農婦から慰めに大きな黒パンをもらう。
それを見て私たちは花を投げ捨て、農婦の元に駆けて行き、同じようにパンをねだる。もらったパンは記憶の中ではとてもおいしく、幸せのうちにこの場景は終わる。
この男性は、実はフロイト自身である。一見、何でもない(花を奪う、パンをねだる)幼時記憶が彼にしつこくつきまとっていたのはなぜか。
この記憶は幼児期から繰り返し思い出されたものではない。17歳のときに彼の故郷であるモラビアの小都市(フライベルク)を訪問したのがきっかけとなり、思い出されるようになった。彼は両親の友人であったフルス家に泊まるが、その家の娘で幼なじみだったギセラと再会し、彼女に恋をしてしまう。しかし、彼は一言も話しかけることができなかった。そこで彼は、もし自分が幼少の頃に故郷を去ることなく、ギゼラとともに育ったならば、彼女と結婚することができていたのではないか、という妄想を抱くに至る。
この初恋話は後に、腹違いの兄であるエマヌエルの娘、パウリーネとも結び付く。
フロイトの父とエマヌエルは、フロイトを実業に就かせるために、パウリーネと結婚させる計画を持っていたが、その思惑に反してフロイトはウィーンで医学生となる。ウィーンでの貧乏生活。彼はやがて、パウリーネと結婚して実業家になるというすでに失われた機会を妄想するようになる。
二つの空想が投影され、一つの幼時記憶が生まれる。ギゼラから奪ったタンポポの黄色は、パウリーネが好んでよく着ていた服と同じ色だった。もし故郷に残ってギゼラと結婚していれば…。父の計画どおりにパウリーネと結婚していれば…。つまり「花を投げ捨ててパンを手に入れる」というのは、「学問を投げ捨てて実業家になる」ということの偽装である。
そうなると例のタンポポは幼時の記憶ではなく、彼の空想に過ぎないのではないか。
そもそも記憶の陳述に保証というものはない。しかしフロイトは、この記憶は本物だという気がしてならないと言う。
彼が無数にある場景の中から黄色いタンポポを選んだのは、それが彼にとってはギゼラとパウリーネという二つの空想を述べるのに最も適していたからである。
記憶は何でもかんでも呼び出すのではなく、与えられた印象の中から一定のものだけを選択する。その選択基準が幼児と大人とでは全然違うように思われるが、必ずしもそうではない。幼時記憶にどうでもいいようなものがあるのは、実はある「ずれ」の結果なのである。どうでもいいような幼時記憶は、他の本当に重要な印象の代用に過ぎない。そしてこの、どうでもいいとしか思えないような幼時記憶を、フロイトは「疑似記憶」と呼ぶ。
やっとたどり着きました。この「疑似記憶」の「ずれ」が、これと似ているのではないか、という話です。
つまり、本当に大事なことは隠蔽されている、ということです。
ど忘れにせよ疑似記憶にせよ、想起行動の故障という意味では同一の行為です。では、なぜ、故障するのか。そこに抑圧があるからです。いや、ここで、抑圧って言っちゃうから、精神分析はあやしくなるのですね。単に、「出てこない」でもいいと思います。
この「出てこないもの」を出す技術。そしてなぜ「出てこない」のかを分析する技術。これの取っ掛かりとして、フロイトは「夢」を持ち出します。夢が荒唐無稽であるにも関わらず、妙に現実と呼応するのは、現実を隠れみのとして、出したくないものを隠そうとするからです。寝ながら笑っている人は、みている夢ではなく、隠そうとしているものがおもしろいから、笑っているのです。その隠そうとしているものを好きなように出すことができれば、芸ですね。それは芸ですよ。
というわけで、「精神分析は芸なんです」が今日の結論でした。
Posted at 2005. 6.21|コメント(2)