人間が描けてない

Posted on 火曜日, 1月 2nd, 2007 at 12:50 PM

正直なところ前二作(偽書、基礎論)は憶えてない。憶えているのはアンチミステリということ。それだけで読みました。そして感想を書きました。ネタバレです。本書『ウロボロスの純正音律』(以下『純正音律』)を読んだ方にはご納得いただけると思いますが、以下の感想文においては『純正音律』以外の作品(竹本健治の作品ではないです)についてもネタバレしてますので、『純正音律』読んでないけどもうどうせ読むこともないだろうし、ネタバレしても構わないよ、とお考えの方はご注意下さい。思わぬネタバレがあります。『純正音律』お読みになった方は、それ以上のネタバレはありませんのでご安心を。

囲碁、衒学、登場人物、黒死館、そしてモルグ街と、本書を論じるにはいろいろな切り口があろうかと思われますが、メタミステリ(ミステリ自体を論じるためのミステリ)の視点からはやはり、『姑獲鳥の夏』(以下『姑獲鳥』)が肝になるでしょう。見えているはずのものが見えていないというあれです。

多くの読者は思うでしょう。『姑獲鳥』は「あり」だが『純正音律』は「ない」だろ。えぇそうです。私もそう思います。

オランウータンが館の中をのしのし歩いていて、見えないはずがないのです。最初の事件が起こり、登場人物たちの間で古典ミステリの見立てではないかという話になったときに、「あのオランウータンが犯人だったらおもしろいなぁ」というセリフが誰かの口から出るはずなのです。いや、それ以前の問題か。事件なんか起こってなくてもオランウータンが登場した時点で「さすが。これはモルグ街ですね」ってことになるはずなのです。ミステリマニアの館なんだから。つまりネタになることはあっても忌避の対象になるはずはない。見えないはずはないのです。

なぜ見えないことにしたのか。ここに作者の意図があります。

京極さんが「うふ」というメッセージを残さなくても、おそらくミステリ読者は気づくでしょう。これは『姑獲鳥』だと。口さがない人はパクリだと言うでしょう。その先手を打って作者は京極さんを殺したのでしょうか。「『姑獲鳥』をパクってますよ」という作者の開き直りなのでしょうか。違います。作者はあえて『姑獲鳥』を劣化コピーしたのです。単なるコピーでもオマージュでもなく、劣化コピーというところがポイントです。

「見えてない」という意味においては『姑獲鳥』も『純正音律』も同じです。でもなぜ、『姑獲鳥』は可で『純正音律』は不可なのでしょうか。『姑獲鳥』の「ミステリ」における優越は何なのでしょう。先に書かれたから? 違います。答えは「人間が描けているから」です。

当たり前ですが『姑獲鳥』はフィクションです。登場する人物はすべて架空です。にもかかわらず、「関口には死体が見えていなかった」という事実には圧倒的な説得力があるのです。実感としてどうでしょう。目の前にあるものが見えないということについて、現実感覚として理解することができますか。少なくとも私にはできません。何もかもが見えないならともかく、ある特定のものだけが見えない。私には想像できません。でも、であるにもかかわらず、京極堂には見えた、榎木津にも見えた、でも関口には見えなかった、という事実には納得することができたのです。繰り返しますが圧倒的な説得力があったのです。なぜか。「人間が描けていた」からです。関口というキャラクターの存在に説得力があったからです。

これに対し『純正音律』はどうか。

当たり前ですが『純正音律』はフィクションです。フィクションではありますが、『純正音律』を含む「ウロボロス三部作」には実在の人物(と信じられているところのもの)が登場します。実在の人物が登場するのだけれど、これはあくまでもフィクションなのだ、そう読者に認識させることが、作者の意図するところなのです。つまり、実在の人物が登場するからといって、その人物たちに説得力があるわけではない。いや、実在するがゆえに説得力がないのでしょう。読者は「実在の人物だからといって現実と同じように振る舞うわけではない」と認識しつつ作品を読みます。だから、誇張されたセリフや不自然な所作が出てくると、「ほらやっぱり、こんな奴いねぇよ」としたり顔になる。人物にリアリティを与えないという作者の目的がものの見事に達成されています。

オランウータンが見えない、ということに説得力がないのは、人物描写に説得力がないからです。つまり、個々の登場人物が、「オランウータンが見えないキャラクタ」として描かれていないのです。ここでは人物描写がミステリにおけるトリックの価値をも決定しています。作者がいいたかったのは、「トリックが同じであれば、人間が描けてないミステリよりも人間が描けているミステリの方が、単にエンタテイメントとしてだけでなく、ミステリとしてもよくできている」ということでしょう。

その意味で、綾辻行人が「ミステリの美学を重んじるがゆえにミスリードされてしまう滑稽な人物」として描かれているのには注目すべきです。彼のデビュー作『十角館の殺人』はトリックだけで突っ走ったようなミステリであり、『純正音律』はその「トリックだけという価値」そのものを揺さぶるからです。私自身は『十角館』は非常に優れたミステリだと思いますが、人に勧めることができるかというとなかなか難しいところです。

いずれにせよ『純正音律』は「ウロボロス」シリーズを締めくくるのにふさわしい作品だと私は思います。竹本健治とは別の方法でウロボロスの続編を書いた笠井潔が本作に登場しなかったのは「あえて」なのかどうなのか、私にはよくわからないのではありますが…。

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