道具としての感情

Posted on 土曜日, 9月 27th, 2008 at 11:10 PM

読んだことがない人などこの世には存在しない人気作家の直木賞受賞作。3年前の作品が再び脚光を浴び始めたのは、文庫化+映画化だからなのですね。原作ものの映画といえば気になるのはキャスティング。湯川役は佐野史郎確定として、石神とか草薙とかは誰がやるのでしょうか。誰でもいいような気がします。というのは地味。地味すぎる。

元ホステスで現弁当屋店員の女とその娘、彼女らの隣人であり女に思いを寄せる高校教師。犯人なんですよ。この三人が。これを地味といわずして、何を地味とすればよいのか、私にはわかりません。実際地味なんです。予想どおり地味なんです。でも、私は泣きました。純愛とか数学とかとは無関係に泣きました。そして、断言できます。映画では泣けません。これはもう絶対に、活字でしか揺さぶられない。以下、ネタバレですが、内容には一切触れられませんし短いです。

これがつまり、宮部みゆきと東野圭吾の違いなのだと思ったのです。宮部みゆきを読むとき私はどうしても何かしら別の趣向を期待するのですが、たぶんそれは間違っているし、多くの読者は求めていない。求めても仕方がない。いや、それはそれでいいのです。何も不満はないのです。でも、泣いた。泣いた自分があまりにもわかりやすくて動物的で、また泣いた。電車のなかでしたよ恥ずかしい。最近読んだ彼女の代表作では得られなかったカタルシスが、文庫版362ページで突如湧いてきてどうにも止められなかったのです涙を。人の感情を動かすという仕事において、トリックの果たす役割のあまりの大きさに、少しばかり失望する次第なのです。いや、逆か。トリックに引っかかるという作業に用いられる、道具としての感情、か。

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