小僧の神様 他十篇

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「清兵衛と瓢箪」。店主にあらすじ聞いて、おぉやるじゃん志賀直哉、食わず嫌いでゴメンよと勢い込んで読んだはいいのですが、違う。全然違う。

とりあえず、父は要らない。先生も要らない。そう、先生なんか登場させちゃうから、「解説」で、子供の伸びようとする個性、才能を押しつぶすのが大人だという風景は、現代の家庭教育、学校教育のなかでも、そのまま該当するなどと書かれてしまうのである。大人VS子供などという陳腐な図式で捉えられてしまうのである。

そうじゃなくてこれは、母親VS息子でしょう。登場人物はこの二人だけでいい。そして主題は「価値観の、どうしようもない相違」。

母は何の悪気もなしに、清兵衛の瓢箪を捨ててしまう。深い考えもなく、ただ捨ててしまう。捨てられたことにより、清兵衛は瓢箪の「無価値性」に気づくのでしょう。捨ててしまったことにより母は瓢箪の「価値可能性」に気づくのでしょう。この両者の了解が重要なのです。了解しているのに、歩み寄れない。いや、了解したがゆえに歩み寄れない。互いに違うことがわかっていて、充分すぎるくらいわかっていて、その上で悲しい。

清兵衛は瓢箪と母の一部をあきらめて、母は清兵衛の一部をあきらめる。埋められない、そこに存在するいかんともし難い断絶を描くべきでしょう。なぜ文豪が「子供の伸びようとする個性」なんぞ描かねばならないのですか。子供をなめているのですか。

「小僧の神様」も同じ。「の神様」は要らない。「小僧」だけでいい。小僧に鮨なんて食わせなくていい。要らないものを書くから、本当に大事なものが見えなくなるのだ。で、揚げ句の果てに超自然か。言うに事欠いてお稲荷さんか。ふ、ふざけるな!無罪だとふざけるな!逆転有罪!溺死の刑に処す!

というわけで、志賀直哉にはたぶん誤読の余地がたくさんあるので、今後ともうまい具合に過ってゆきたい所存です。

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コメント / トラックバック 2 件

  1. あきら より:

    母は瓢箪を捨ててはいません。そのような表現は見られないと思うのですが。

  2. 店員K より:

    ありがとうございます。
    そのご指摘、4年間お待ちしておりました。
    「とりあえず…」から「…子供をなめているのですか」までは、
    私の妄想「清兵衛と瓢箪」です。
    といいますか、こういう話だったら好みだったのに、というものでして、
    何のレビューにもなっておりませんで申し訳ございません。

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