Archive for 1月, 2011

経済学原理 (四)

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目次に「停止状態」についての章があるのを見た時点でもしや…と思ったら、やはり、

(p. 127) 婦人の産業的社会的独立から恐らく生ずるであろう諸帰結のうち、ただ過剰人口の弊害の一大軽減だけを指摘しておこう。人類の一半たる女性をもっぱらこの仕事のために割いたことによってこそ、すなわちこの職能が女性の全生活を占めてしまうことを許し、かつそれが男性のほとんどすべての目的と自らを織り交ぜることを許すことによってこそ、ここに問題となっている動物的本能が、それが今日まで人間生活において揮ってきた、あの不当に優越せる地位に高められたのである。

著者はたぶん今現在の日本を見ても驚かないし悲観もしなさそうです。

ところで、戦争がもはや過去の遺物であるかのような叙述が1巻からところどころにあるのですが、いったいこれが書かれた当時、二つの大戦より更に昔(前々世紀)のイギリスを、どういった気分が覆っていたのか、フィクションでも構わないので読んでみたくなりました。

経済学原理 (三)

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為替取引と貿易の話がとても丁寧で分かり易い巻でした。
しかし目が止まったのは、

(p. 242) 『経済学』に関する理解の根本的な相違、……一方の見解からすれば、私たちは、ただどのようにしたならば十分なる生産と最善の分配とを結合することができるか、ということを考察すればよいわけである。しかしいま一方の見解からすれば、いまひとつ、どのようにしたならば生産物ののための市場を創造することができるか、あるいは生産を市場の能力の限度に押さえることができるかという、考慮すべき第三の事がらがあることになるのである。そのうえ、これほど本質的に自己矛盾的な学説は、それを執ったがために経済学の核心そのものに混乱をもち込んでしまうことなしに、社会のこれ以上に複雑な経済的運動を多少とも明確に認識することを不可能ならしめてしまうということなしに、これを執りうるものではない。……このもっとも重要な論点の真相を明らかにした功績は、主としてヨーロッパ大陸ではかの聡明なるJ.B.セーに、またわが国ではミル氏(訳注:著者の父ジェイムズ・ミル)に属する。

以前マルサスとリカードを立て続けに読んだ際、とても面白い、面白い掛け合いだけれどもしかし、ここはいったい何を探求している分野なのだろうかと困惑した理由をすっきりとまとめてもらえました。
本書ではこれ以上こまかく掘り下げていないので、ミル(父)の方をあたることになりそうです。

経済学原理 (二)

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(p. 17) 私有財産制を社会哲学上の一問題として考察するに当たっては、われわれは、この制度が現在ヨーロッパに存在する諸国民のどれかの中に生まれてきたその実際の起源は、これを措いて考えないことにしなければならない。原住民の所有によって妨げられることなき社会を、すなわち一隊の植民者が無人の国土をはじめて占拠し、共有物となっている物以外には何物も携えていず、自分たちがもっとも好都合である制度と政体を自由にとることができ、したがって生産上の仕事をば、私有財産の原理に基づいてなすか、それとも何らかの共有共営の制度に基づいてなすかをまず選択決定しなければならないという場合を、仮定しよう。

いくらなんでも無理のある仮定では、と思ってしまいました。
こうしないと(思ったように)話が始められないのだろうなという事情は分からなくもないのですが、しかしそれにしても…。

当時の欧州各地における農業の状況が比較詳述されています。
日本でも前世紀半ばくらいまであった小作農についての詳しい話をここで初めて読みました。
まだ消えて100年も経っていない筈なのですが、考えてみると昔話として聞いた記憶すら無く、えらい大昔の事に感じてしまいます。
自作農/小作農は自営業/被雇用とでも読み替えないと苦しい程でした。

それはともかく著者がもしまだ存命であったならぜひ目下の日本についてコメントが読みたいと思ったのは第12章です。
この文庫が発行され増刷もかかっていた昭和30年代の出産観というのはどんなだったのだろうかと気になり始めました。

(p. 304) 産児を否認することは残酷であると見られているが、その産児という行為は、当事者の一方における動物的本能への退廃的服従と、多分は他方の当事者におけるいまわしき権力濫用への絶望的服従とである

(p. 313) 社会というものは、主として、肉体労働によって生活する人々から成り立っている。そしてもしも社会が、すなわち労働者たちが、その肉体の力を貸して、幾人かの個人が余分のものを享楽するのを守っているとするならば、彼らは、これらの余分のものに対し公益の目的のための租税を課する権能を留保した上でこのようになしうるものであり、また事実いつでもそうしてきたのである。そして公益目的のためという中で第一に重要なものは、人民の生存そのものである。何びとも自分が生まれてきたことに対する責任はないのであるから、現在すでに生存しているすべての人々に対して十分なものを与えるために、十分以上のものをもっている人たちがどのように大きな金銭的犠牲を払ったとしても、その犠牲が過大な犠牲であるということはない。
しかし、生産し蓄積をした人たちが、ひとり今日生存しているすべての人たちに対してばかりでなく、また今日生存している人たちならびにその子孫の人たちが勝手に生むところのすべてのものにも衣食を与えねばならぬ、それまでは消費を控えなければならぬとすれば、それは、まったく違った問題である。

(p. 315) ひとは誰も生きる権利をもつ。このことは承認されたと仮定しよう。しかし他の人たちに養ってもらわなければならぬ子供を生む権利は、誰にもないのである。

(p. 316) 政府が、生まれ出るすべての者に対して職を保障し、十分な賃金を保障するということは、不可能なことではないであろう。しかし政府がもしこれをなすとすれば、それは、自衛上からいって、また政府存立のあらゆる目的からいって、政府の承諾しない子供を産んではならないという規定を設けなければならない。……社会は、要扶養者の人工増殖を自らの管理のもとにおくならば、その要扶養者を養ってゆくことができる。また要扶養者の生活維持をその人たち自身の配慮にゆだねて、その人口増殖をその人たちの好むところにまかせる(ただし生まれた子供たちの悲惨な運命に対する道徳的感情は一切これをすててである)こともできる。しかしながら扶養を引き受けながら、人工増殖を放任して、しかも無事泰平であることはできないのである。