Archive for 8月, 2008

資本論 (二)

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急いでいる方は、この巻については前から10分の9ざーっとすっとばして、
非常に疲れている方は、ひとまずp.456と457を。
余力があればそれ以降も。

とくに現代日本でこれから闘争を試みている方は、膨大な事例は読み飛ばしたほうが無難です。
どれもこれも凄まじ過ぎて、よほどのことがないと現状が天国に思えるようになり闘志が萎む危険性大です。

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資本論 (一)

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この第1冊目のみ、2冊目以降のほぼ半分の厚みです。
とっかかりのハードルを低くしてあるのだろうなとは思いつつも、
すみません、猛暑日つづきで睡眠不足ぎみだったのがこれでいくらか解消されました。
第1篇第1章第3節のあたりでエアコンが故障、とても居眠りできるような室温ではない筈の午後2時に1時間近くもの昼寝に成功しました。

(p. 303) (注51)パン焼職全数の四分の三以上を占めている「アンダーセラーズ」は、ほとんど例外なしに、明礬、石鹸、粗製炭酸カリ、石灰、ダービシャ石粉、その他類似の快い、栄養のある、そして健康な成分を混入して、粗悪にしたパンを売る(「パンの粗悪製造にかんする1855年の政府調査委員会」の報告、ロンドン)

残りあと3頁の↑でにわかに目が冴える。
いくらなんでも石鹸や石灰は。
あずき餡の再利用などとはもう次元が…

といったところで2冊目につづきます。

人間の権利

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(p. 73)       わたしは、人間の天与の尊厳のことを考え、その特性である栄光と幸福とに心を惹かれるとき(自然は、わたしの感情を鈍らせるほど親切は示してくれないでいる)、人間すべてが無頼漢か愚者であるように、暴力と欺瞞とによって人類を支配しようとする企てに対して腹立たしさを覚える一方、そんなものにうまうまとだまされている連中に対して嫌悪を覚えないではいられない。
 次に、迷信や征服から発生した政府とは対照的に、社会から発生した政府について一通り吟味しておかねばならない。
 政府とは支配者と被支配者とのあいだに結ばれた契約であるとの考えは、自由の諸原理を確立するうえから言って、著しい前進であると受け取られてきた。だが、それは真実ではあり得ない。原因の前に結果を置くことになるからだ。なぜかといって、人間は政府が存在する前から存在していたにちがいないのだから、必然的に政府など存在しなかった時期があったわけで、したがって、このような契約を結ぶ相手の支配者がそもそも存在したはずはないのである。

愛すべき人だと思います。こういう人は必要というか居てくれないと困るような気はします(前半部分)、
しかしそれにしても、著者と自分との世界観にはなにかだいぶん、ズレがありそうだなとも思いました(後半部分)。

「政府」はそんなに古くからあるものではないかもしれませんが、「威張る人仕切る人怠ける人」と「怯える人従う人面倒見てしまう人」という図式はかなり早い段階から、下手するとヒトの最初かあるいはそれ以前からあって、そして、位置関係の変動は起きても、ものすごく入り組んだ関係にはなっても、まったくの水平にはできないだろう、という見方を取っている者としては、いったいどう対話したものだろうかと考え込んでしまいました。

ヒトは「ユープケッチャ(安部公房参照)」ではありませんので、のんびり(世代またいで)か猛スピード(一代で)か差はあるにせよ、強制(戦争とか天災とか)だけでなく任意(退屈とか発情とか野心とか「モナド」は風通しが悪くて厭とか)でも、あれこれの図式間を移動するわけです。
そして、移動は殆どしなくとも図式化するのがどうしようもなく好き、というヒトも、どうやらかなり大昔から居る。
私の相方に至っては「踊る人を見る人を眺める人」といった風情でもうなにがなにやら。
居るものは居る。それはもうとやかく言ったところで仕方ないから、このしっちゃかめっちゃかを前提にして、さて当面どうするか考えよう、ではいかんのでしょうか。

前提を平板にしないと話はできないとか言われると、永久に対話が始まらないような。

そもそもこういうのが居るから困ることになる、という見方はひとまず脇へのける(居るものは居るのでそれは仕方ない)として。
この「ズレてる」感が私の時間的な遅れによるのか地域的な差異かはわかりません(この辺りはまだ勉強中判断保留中です。すみません)。

著者は200年ほど前に亡くなっているとはいうものの、本書は2005年の一括重版ものです。
ある程度の要望あっての重版か…
しかしこれは…もし今現在の若者を奮い立たせるのに使うなら、相当な用語変換をしないと、さすがに苦しいのでは。

(p. 107)     「上辺はどうあろうと、君主政治を卑しむこと、宮廷に仕える連中ほど甚だしい者はない」…自分たちと同じように、他人が君主政治を見るようなことがあったら、手品の種がじきにばれてしまうことを、彼らはよく知っているのである。
 彼ら宮廷人は、見世物の愚劣さがよく分かっているので、それを笑い物にしていながら、しかもその見世物で生計を立てている人びとと同じ事情にあるのであって、もしも見物人が、この点について、自分たちとおなじくらい利口になるようなことがあったら、見世物は幕を閉じなければならず、同時に利益もふいになってしまうことだろう。
 君主政治について、共和主義者と宮廷人とのあいだに見られる違いは、前者が君主政治を多少は意味のあるものと信じてこれに反対するのに対して、後者はそれが無意味なものであることを知ってこれを嘲笑するところにある。

この辺りは、「君主政治→新聞テレビ雑誌や省庁や企業」「宮廷人→制作や現場の人とか元官僚とか」「見物人→読者や消費者」に置き換えれば、ちょっとは使えそうでしょうか。
いま日本で斜陽といわれている界隈で何が起きているかの説明を子供にするとすれば、

しばらく盛り上がってた手品の種がバレてすったもんだの最中。
バレたオトシマエのなすりつけ合いと嗤い合いが続いてるけれども、
なにしろ日本に住んでいると多くの人は飽きっぽくなるので、
やさぐれもそろそろ飽きがくるだろうから
なにか新しい見世物を探してるところ
とでも言っておくのでしょうか。

見所ありそうな子供なら、お前なにか新しいネタを考えてみろや、と振ってみるとか。

ところが、第二部へ読み進むと、これはなるほどまさに2005年の重版にふさわしかったのかもしれない内容。
坊ちゃん嬢ちゃん(今の用語ならニート)を諭すかたわら相続税制度の趣旨が解説されたりしています。

しかし思い起こせば3年前は、仮住まい先で静かに激増する空き巣車上荒らし駅前ひったくり監視カメラに恐れをなして脱出の算段にかかりっきりでした。
小泉自民党以外に投票するのが精一杯の抵抗でした。
ほとんどひたすら「怖かった」記憶しかありません。
灯りが投げられてはいたようですが、気がつく余裕など、とても無かったのだなぁと。

やはり本書はどうにもコンパクトさにもインパクトにも欠けます。
誰かこれをタネ本に現政権へカウンターかましてくれよという臨終間際の弱々しい叫び、というにも弱く、
メガホンというよりはリレーのバトンのよう。

それはそうと、いましがた『資本論』を発注したからそう感じるだけかもしれないのですが、
どうも筑摩と比べると岩波は…もうちょっとあざとくてもバチは当たらないと思うのですが。
両方かかえる甲斐性はありませんので、よさげな装幀のマルクスコレクションは相方に振って、岩波文庫版の方に取りかかります。