Archive for 6月, 2008

国富論 (三)

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日本には、狩猟民族と農耕民族はいても遊牧民族がいたことは無いかそういえばということと(いや、騎馬民族は遊牧民族とイコールなのでしょうか?)、
自分がこれまで狩猟民と遊牧民をきちっと区別していなかったことが判明しました。

(p.345 第5編 第1章 第1節 防衛費について)       狩猟民の軍隊は、200あるいは300人を超えることはめったにありえない。狩猟から得られる不確かな生活資料は、それ以上の人数が、かなりの期間、まとまっていることをめったに許さない。これに反して、遊牧民族の軍隊はときには20万ないし30万にのぼることがありうる。彼らの前進をとめるものがないかぎり、まぐさをかいつくした一地方から、まだ手をつけていない他の地方へ彼らが移ることができるかぎり、ともに進軍できる人数にはほとんど限度はないように思われる。狩猟民族が、近隣の文明国にとって恐るべきものであることはけっしてありえない。遊牧民族はそうでありうる。

…遊牧生活というのはなんだかヘッジファンドみたいだなと思えたことはともかく、

(p.392 第5編 第1章 第2節 司法費について)       弁護士と裁判所書記の報酬を、たいていのばあい、彼らが書く必要のあるページ数に応じて規制するのが、近代ヨーロッパの習慣であったが、裁判所は、1ページには何行、1行には何語なければならないと要求した。弁護士と書記は、報酬を増すために、まったく必要がないのに語数を増す工夫をし、私の信じるところでは、ヨーロッパのすべての裁判所の法律用語を腐敗させてしまった。

(p.393)         司法権の行政権からの分離は、もともとは、社会の改良が増加したために、社会の業務が増加したことから生じたように思われる。

配慮のためではなくズルのために冗長になったのでは、とか、
分権したのは、単に手が足りなくなったからでは、とか
こういう指摘(ツッコミ)が黙殺却下されないどころか「古典」としてある辺りに、なにか途方も無く青版(とくに東洋思想ジャンル)からの隔たりを感じました。

困難な装置

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小説の読者は、その小説の展開を予想(期待)する。付箋のページを追うだけで、読者がどのような展開を予想(期待)したかがわかる。大変よくわかる。どのあたりで裏切られたかもわかる(たいていの場合は裏切られる)。読者の欲望に忠実であることが小説に求められるとすると、付箋を辿り、剥がしながら再読することによってしか、今回は感想を書くことができない。

ミシェルとブリュノは異父兄弟だった。この二人を中心に物語は展開する。ブリュノ寄りに物語が展開することを私は期待した。

ミシェルは不思議な男の子だった。サッカーのことも、流行歌の歌手のことも何も知らない。クラスの嫌われ者だったわけではない。口をきく相手は何人かいた。しかしそれはごく限られたつきあいだった。アナベルの前に、ミシェルの家に誰かクラスメートが来たことは一度もなかった。ミシェルは一人で考え事をしたり夢想にふけったりするのに慣れていた。ガールフレンドがそばにいることにも、徐々に慣れていった。

この時点で私はミシェルをうまく思い描けなかった。まだ70ページ目だったが、感情移入を放棄した。

ミシェルがダメならブリュノしかないわけだが、恥ずかしいことを告白すると(と予防線を張って告白すると)、私はもう少しのところでブリュノになりそこねた。あるいはならずにすんだ。たぶん、私ぐらいの年代で、日本人で、男性で、ブリュノに肩入れできる人は多い、のだろう、と思いたい自分が少し、疎ましい。

ブリュノはこの恐るべき幸福に浸された数秒間のことを、何度も繰り返し思い出すだろう。カトリーヌ・イェンサンがそっと手を押しのけた瞬間のことも思い返すだろう。

ここでミスリードされた。というよりも、自ら進んで誤った道に踏み込んだ。ここは70年代初頭のフランスだったのだ。ゼロ年代の日本ではなく。ゼロ年代の日本だったら、問題は異なる様相を見せる。

以下はもう本当に文字通りの不審紙。

若いころミシェルは苦しみによって人間はさらなる威厳を得るのだと信じていた。だが今となっては間違いだったと認めざるをえない。人間にさらなる威厳を与えるもの、それはテレビなのだった。

なんでテレビが出てくるの?ポピュリズムけつくらえ?

ブリュノはリラックスしてなりゆきにまかせよう、<ロックン・ロール>だと心に決めた。

<ロックン・ロール>か。<ロックン・ロール>なのか。

セックスは、ひとたび生殖から切り離されたなら、快楽原則としてではなくナルシシズム的な差異化の原理として存続するということが彼には理解できなかった。富への欲望に関しても同じことさ。

これってフランス人だけなんじゃないのー、って思ったんだけど、どうもそうではないらしく、ただ、どうもそうではないらしいというようなことを書くとなんだか嫌らしい。というのは競争の埒外にあることによる優越性というか、つまりいうところの、すごい、めんどくさい。そう。めんどうくさい。めんどうくさいがゆえの。性愛による(90年代)、あるいは消費による(80年代)自己実現って話になるのかな。そういうもので実現するのは幸せなのだと思うけど、そういうものではなく実現する自己もあるし、そもそも実現するだけが自己ではなく、いやもっと言ってよければ自己なんてものは近代という架空の世紀が吐き続けた嘘なんだから。それさえ分かってたら、あぁいう痛ましい事件は起きなかったはずなんだ。

ブリュノを一人の個人と考えることができるだろうか?内臓の腐敗は彼のものであり、肉体的衰えと死を、彼は一人の個人として知ることになるだろう。だがその快楽主義的人生観、そして意識と欲望を構造化する力の場は、彼のジェネレーションに固有のものだった。…ブリュノは一人の個人とみなされうるとしても、別の視点に立つならば、ある歴史的展開の受動的要素にすぎないともいえるのだった。彼の抱く動機、価値、欲望。そのいずれもが、同時代人に対し彼をいささかも差異化するものではなかった。

ブリュノがそういう種類の差異化を求めているようには私には思えなかった。ブリュノはブリュノにふさわしく性愛に対する欲望に素直で、素直であるがゆえにもてあましていただけなのではないか。満たされないことへの苦悩が見えてこないのである。カトリーヌ・イェンサンに手を押しのけられた瞬間でさえも彼は、不満足ではなかったのではないか。

土手の草は焦げてほとんど白くなっていた。ブナの枝がかぶさる下を、濃い緑の川の水が延々とうねりながら流れていった。外界には固有の法があったが、それは人間の従う法ではなかった。

これがフランスの小説なのだと思うと胃が重い。フランスというのはもっと、ルールへの忠誠のみで成り立っているのではなかったか。こんな映画みたいなフランスは読みたくなかった。鯖はすごく美味しいんだけど、食べて何時間ももたれる日曜の夜、そんな感じのフランスだった。勝手に読めと、突き放された気分のフランスだった。ロブ=グリエと同じ学校の出身か。人間ってほんとうに、めんどうくさい生き物ですね。

きなこと黒豆のせアイス

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これはちょっと予想が外れました。
とくに風味が増すことはなく、むしろ混ぜ込み→冷凍方式のほうが、味がなじんでまとまっていたような。
きなこ味が圧倒的で黒豆はかすんでしまう感じです。

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国富論 (二)

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別枠の学習で呑込みきれず難儀中の「手形」に関する記述があり(第2編第2章)、昔の事例で読めば大筋を掴み易いのではないかと期待したのですが、そこまでうまい話にはなりませんでした。
何につけ現在と比べれば過去のほうが、地雷の数は多かったのだなということは窺い知れましたが。

ところで第3編部分、伴侶のボヴァリー夫人化防止策として使えるかもなどとも思いついたのですが、これはすぐに却下。
伴侶はすでに「どうこう」できる段階の生き物ではない、ほとんどすでに手遅れだろうなと考え直し、
しかし子供への備えには、有効ではないかと。

本が読める程度に育ったら、浪費癖がつく前に『国富論』第3編まずは素読。
骨身に沁みるまで(沁みても)治らない病気なのかもしれませんが。