Archive for 10月, 2004

柿ケーキ

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生のままの柿を上にのせてスポンジケーキを焼いてみました。
例によって林檎ほどの芳香はないのですが、わるくない仕上がりでした。
ちょうど食べごろの固さの柿を使いましたが、もうすこし熟した、溶けかけた柿のほうが味が濃くなって良いかもしれません。

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焼き柿のアイスクリーム添え

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柿をバター焼きにしてみました。
まずくはないのですが、けれどもやはり焼き林檎には遠く及びませんでした。

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世界の中心で、カカアは叫ぶ

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いきなり、

やはり、なにかハッキリさせたいものが、あるんだろうか?おれ自身にも、わからない。

ときたものである。

次に、「しかし、」ときて、さらに「ともかく、」と続く。たぶんもうこの時点で(まだ一頁も進んでいない)、読まない人は読まないだろう。

朝おきてからの出来事を特におもしろくもなく並べていく。「おれ」は駐留軍の施設で、検査技師のようなことをしている。作業の内容について詳しいことが書かれているが、詳しいことはほとんどわからない。ただ、分からなくても読める。

「おれ」は通勤途中駅へ向かう道のりや電車の中で、同じく通勤(または通学などなど)途中であろう人を観察し、あれこれ想像する。屈強そうな体躯、頑固そうな顔の男は土方をやっていて、休憩時間には聖書を読んでいるだろう、職場ではもちろん浮いているし、教会に行っても汗臭いのを嫌がられているだろうとか、たばこをふかして歩いている30半ばの女はGIの恋人がいるだろう、週末にいつもハイヒールなのはデートだからだろうとか、本当のところはもちろん分からないが、たいがい当たっているだろうという。もちろん確かめる術はない。

「おれ」の翻訳してる小説が、ところどころ挿入されるが、これも取り立てておもしろいものではない。何か教訓めいたことがあるわけでもない。

やっても、やらなくても、そんなことはどうだっていい。もっとも、どうでもいいことばかり、こうして書いてきているんだが。

そうなのである。どうでもいいのである。ここから読み取れるのは、個々の事実ではなく、「おれ」の他人を突き放す態度である。そこには「カカア」や「上の娘」や「下の娘」も含まれる。

突き放すといっても我関せずというのではなく、他人は他人だからわからない。あれこれ想像はできるが分からない。分からないから分かりたいかというとそうでもなく、結局のところどうなのだろう。「おれ」はどう関わりたいのだろう。

おれにとっては、このおれは、いくらか述語の選択ができる主語のはずなのに、なぜ目的格にしてしまうような努力をするんだろう?こうして、だんだん、死んでいっている。

寒い冬の夕方に「道をあるいている人たちを、けっして寒そうには見ていない」ことに気がつく。それがつまり、世界の有り様なのだろう。中学生の「おれ」が電車の窓から外を見ているときに、突然自分とは離れた世界があることを認識するのも同じことだ。他人は他人として理解不能のままあり、世界は無関係でも回っている。自動巻時計は巻かれもしないのに自動する。

世界に中心なんてない。100パーセントの説明もない。ただ、カカアの機嫌がいいのは、悪いことではない。今日のところはもう、寝てしまうとしよう。

柿のパウンドケーキ

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柿をコンポートにしてケーキに使う、というレシピを見つけ、さっそく試してみました。
栗の甘露煮は省略です。
砂糖煮した柿はまるで桃のような食感でした。

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柿にアイスクリーム

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ひとまずシンプルに。
予想通りアイスの風味に負けました。生の柿はそれだけで食べるのがいちばんだと再確認しました。

柿アイス

2kgの柿をどう食べるか

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柿をいただきました。
どちらかというと好きな果物ですがしかし、ひとりあたり約1kg……さてどうしたものか、ちょっと考えどころです。

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干し芋にアイスクリーム

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あぶった干し芋にアイスをのせながら食べてみました。
うまかったです。
とくに芋のすこし焦げた部分がバニラアイスと混じりあったときの味が気に入りました。これは秋冬の定番おやつにしたいです。

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描く能力

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駅前マイカルのビレッジヴァンガード姉妹店で見つけましたエド・エンバリー。ソニープラザで売られているのですね。この本と幼少の頃に出会っていれば、私の人生は変わっていたでしょう。歴史は動いていたでしょう。翻訳本の初版は1980年。ちょっとのところでスルーしてしまった世代です。

絵が描けない人にとって絵を描くというのは存在の根源にかかわる問題です。なぜ描けないのか。いや、むしろ、なぜ描けるのか。

絵というのは二次元である以上、三次元をそのまま写実したものではありえません。二次元と三次元とでは、文字通り「次元が違う」のです。知覚して変換したものを紙上に写し取っていく。これができないのは知覚か変換かに問題があるからです。いや、むしろ、これができるのは知覚と変換が異常に優れているからです。

エド・エンバリーは絵を描くという作業をシステム化しました。○や□といった簡単な(□はともかく○は「簡単」とは言い難いですがそれでもやはり簡単です)図形を組み合わせて、複雑な画像を構築するシステムです。つまり、三次元を二次元に変換するのではなく、二次元を二次元から組み立てるのです。

これにより、いま目の前にある消防自動車は描けなくても、単なる消防自動車は描けるようになります。三次元を二次元にするのは無理でも、絵を描くことは可能なのです。実際絵の描ける人が、この方法(のバリエーション)で描いているかどうかは知りません。でも、どんな方法にせよ、描けるというのはうれしい。めでたい。ビジネスシーンでも大活躍。会議資料の裏に消防自動車やカエルや人の顔をたくさん描きます。同僚から目をそらされたって平気です。

絵が描けない人にとって絵を描かされるのは真の恐怖です。泳げない人がプールに放り込まれるようなものです。飛べない人が崖から突き落とされるようなものです。まさに生き死にの問題です。でも、もう大丈夫。僕はもう大丈夫。

と思ったのも束の間、新しい問題が発生します。この「単なる消防自動車」って一体何なのでしょう。いま目の前にある消防自動車と単なる消防自動車とは、どういった関係にあるのでしょう。まったくの無関係なのでしょうか。エンバリーはこの関係を超越してしまったのでしょうか。エンバリーがエンバリーの手法でエンバリー自身を描いたらどうなるのでしょう。

もう眠られません。

それから、翻訳があるにもかかわらずあえて原書を購入したのは、私の英語が素晴らしくて外国人にも「オー!ユーノエイゴ、ベリースバラシイネ。ミーノクニノ、ヒトカトオモタネ」と言われてしまうほどだからです。超語学力だからです。安かったからではありませんので念のため。ペーパーバックで表紙とかペナペナで悲しい思いをしているわけではありませんので、念のため。

かぼちゃにアイスクリーム

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蒸したかぼちゃをほぐして、アイスにのせてみました。
わるくない食感だったので、芋類でも試してみたいと思います。

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シナリオライターの憂鬱

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出鱈目だ。ひどすぎる。物語に対して特別な思い入れがあり、『緑の家』を読んでやられてしまった人は読まない方がいい(そういう人はすでに読んでしまっているだろうが)。とても同じ作者が書いたとは理解できない。騙された!金返せ!サッカー場に火を放て!

奇数章で僕(若かりし作者)とフリア叔母さんとの恋物語、天才シナリオライターペドロ・カマーチョとの刺激的な日々。偶数章はその天才が書いたラジオドラマだが、どれも途中で放り出される。

それが途中からだんだんおかしくなって、互いに無関係のはずの各ドラマ同士が入り乱れるようになる。警官がまじない師として再登場し、死者は生き返る間もなく二度死ぬ。迫り来る暴漢は密航者(ここは(笑)が100個ぐらいつくところですよ)。天才シナリオライターは珍しく弱気となり告白する。「記憶が裏切るんだ…」。いや、ちょっと、裏切りすぎ。カマーチョ最高。

が、真骨頂はドラマ間の混交ではなくてやはり、奇数章の、偶数章への侵略であろう。物語が現実を、ではなく、現実が物語を侵す。現実は物語じゃないから、物語を好き勝手に侵すのだ。

「昨夜は何があったか知ってるか。舞台は山から下りてきた貧しい家族が経営するリマの古びた下宿屋だ。みんなでしゃべりながら昼飯を食べている最中に、突然地震が起きるんだ。ガラス窓や戸が震える音がして、叫び声が上がる。それがあんまり真に迫っていたんで、俺たちは腰を抜かしそうになったよ。」

昨夜起こったことが奇数なのか偶数なのか、誰に判断できるだろう。

「これはニュースじゃなくて、十一時のラジオ劇場ですよ。」

という科白を吐く人物が、ラジオ劇場の登場人物じゃないとでも?

マリオとフリアの恋の行方にも注目したい。いい加減な区長を探し求め、二人と援助者はペルー中を走り回る。なぜ、そんなにまでして、結婚せねばならないのか。これは、物語というよりもリアルであり、紛れもなく「ラブコメ」である。そして、最終章のこの懐古的な、それでいて乾いた感じは何だろう。

あらゆる自伝は、「自伝的」にならざるを得ない。物語が現実には困難だからだろう。『緑の家』よりも屈折していて、どちらかというと『緑の家』の方が好きだけど、こういうのもいいかなぁと思えます。いずれにせよ、すごいなぁ。破綻してなくて、律義です。