Archive for the 日本思想 Category

文明論之概略

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(p. 218)  欧羅巴の各国にては、その国勢の変ずるに従て、政府もまたその趣を変ぜざるべからずといえども、独り日本は然らず。宗旨も、学問も、工業も、悉皆政府の中に籠絡したるものなれば、その変動を憂うるに足らず、またこれを恐るるに足らず。もし政府の意に適せざるものあれば、輙ちこれを禁じて可なり。唯一の心配は、同類の中より起る者ありて、政府の新陳交代せんことを恐るるのみ。

140年以上前の問題提起なのですが、例によってというか、つい最近の新刊書でも見たような。

現況解説が古くなっているのは当たり前として、問題の焦点が古くなっていないというのは、どうなのでしょうか。

いよいよ10年くらい後には、これも古い話になる、のでしょうか。
危うい雲行きですが。

イタリア古寺巡礼

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タイトルに偽りがあるわけではありませんが、枝葉末節の描写、
旅先の気候とか風景とか食事の話も充実しています。

それにしてもローマ近郊の料理屋で食べる「牛の脳のフライ」。
これについては更に詳しい記述が欲しかった。
できれば写真も。
惜しまれます。

グーグル検索によると、どうやらフランスやケニヤ等でも
牛の脳はポピュラーな食材であるらしいことはわかりましたが、

(→イタリア牛肉事情)

(→アメリカ:牛の脳バーガー)

(→ケニア:煮込み料理)

肝心の画像が、どうにも見つけ出せません。

(→鹿脳みそのフライ)

これと似たような感じなのでしょうか。
かき揚げ様のものを想像してましたが、むしろクリームコロッケに近いような。

実際のところ、どんな形状なのでしょう。

蘭学事始

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開国にどれほどの弊害があるにせよ、鎖国はまっぴら御免、という己の立ち位置を再考させられました。
つまり、永久に立てこもる(そして内側から腐ってゆく)のは論外としても、一時的に閉ざされた不自由に置かれるのはわるくない。
エネルギーを蓄えるのには。
「なにも規制が無いと、生きるのにメリハリがつかない」のもひとつの真理ではあります。

が、しかし…その「規制」をお上から与えられるのはやっぱり御免です。
鉄でも竹でもカーテンが厭なことには変わりはありません。
「むかし(江戸→明治の開国期)の人は偉かった」のは認めます。が同様の人生を送って偉くあるべし、とはやはり思えませんでした。

そして本書の膨大な註は、必読です。
とくに、本文を読んで著者の情熱にのぼせあがった人(私のことです)等には、いったんすこし頭を冷やすためにも、ぜひ。
だてに本文以上の分量になっているわけではありません。

風姿花伝

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「花」といわれてスッと頭に浮かぶ花は、ここでは「誠の花には非ず。ただ、時分(年齢が過ぎれば散っていく)の花なり。」と言われてしまいます。
そして四十四、五のころまで失せない花こそ「誠の花」と。

いっそ誠の花でなく実あるいは果とでも書いてくれると分かり易いのになぁと思いつつも、よくよく考えてみれば、誠の花もゆくゆくは失せるわけですから、ここはやはり「花」と呼ぶのが正しいのだなと考え直しました。

ところでこれが日本思想に分類されていることにちょっと違和感をおぼえます。芸術ではなにか問題があるのでしょうか。

岡 正雄論文集 異人その他 他十二篇

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「民’族’学と民’俗’学とは、ぜんぜん別のものです。混同しないように」と大学時分に(複数の)教授から教えられ、具体的にどう違うのか説明を受ける機会もあったのですがしかし、あれこれ説明されてもいまひとつスッキリと整理がつかず、ともかくどうも、どちらもかなり政治がからんでくるらしい…という印象だけが残り、「族」にも「俗」にも深く首をつっこむことなく放ったらかしてありました。
そして、本書を読んでそのうやむやが解消されたか、というと。
やはりそれはうやむやのままです。
せめてどちらか一方にでも入れ込めば差異も見えてくるのでしょうか。
どんなに鮮やかに解説されても、そもそも関心をもっていないと「違い」は分からないことを思い知らされました。

ただ、本書を読んですこしほっとしました。

68p.  日本文化がすでに混合文化であり、いくつかの異系種族文化を分析し再構成する可能性があり、またそれが、日本固有文化の解釈にとって、きわめてたいせつであるという認識が重要なのであって(…中略…)

 日本文化の基礎構造は多元的累積的であることをふたたびここに力説したい。

「固有」を見出すことにかける情熱はやはりさっぱり分からないものの、その立ち位置は、そんなに窮屈なものでもないのだな、と。

  

自叙伝・日本脱出記

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最終章の「外遊雑話」が無かったら、ハムスター小屋にほったかもしれません。

長谷川如是閑評論集

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なぜ小泉首相の似顔絵が岩波文庫に、と。
もちろん勘違いだったわけですが。
古本屋でたまたま250円均一セールをやっていたのでなかったら、この岩波文庫企画が無かったなら、
たぶん買いまではしなかったであろうと思います。はじめてジャケ買いというものをしました。

そして「当たり」でした。
もちろん著者は小泉首相に似てはいません。ほとんど対極です。
煮たて隠元豆売りの爺さんにはシビれました。

こういうことがあるから実店舗のぞきは侮れません。

しかし80年以上前の評論文が古びていない、同時代の世相に対するものすら、ほとんど実用として読めてしまうというのはどうなのでしょうか。
だれも聞く人がいなかったか、はたまた人は聞いても忘れるから堂々巡りしつつあるのか。
でなければ、とやかく言う人の目に映る世界はいつの時代も似通っているのでしょうか。

ところで本書のキモからはまったく外れた箇所ですが、

302p. 明治三十年代の半ばごろから、女学生が海老茶袴を穿き出したのだが、そのころ吉原遊郭に、娼妓が海老茶袴で張り店をしている妓楼があるという話を、『日本』の記者がどこかで聞いて来て、

100年以上もむかし既に看護婦やセーラー服の類いがコスチュームとして飯のタネになっていたとは。

極光のかげに

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シベリア俘虜記は、4年ほど前に読んだ内村剛介の『生き急ぐ』が当たりだったので、気になるジャンルのひとつでした。
本書の冒頭時点における著者のシベリアでの立場は、事務員。
独房には入りません。足枷をかけられたりもしません。
シベリア抑留における中間(まったくの被害者になりきれない)管理職の悲哀と懊悩かと、ちょっと期待。

嘆きと嫌悪は充満しています。でも懊悩とか煩悶は…

本書にスムーズに同調するためには、以下の抜粋箇所に何らひっかかりを感じないか、
あるいは「まったく、しょうがないひとねぇ…」と大目に見ることができるか、
どちらかの度量が要ります。

51p. 私はラムさん(引用者注:著者の抑留仲間)に話しかけた。
「君、いまなにに一番飢えている?」
(中略)
「僕は女心だな」
「女心?」
「うん、女心、女の心だよ。永遠に女性なるものさ。海のなかにつかるように、女心のなかに沈みたい」

ここはまぁ書かれた時期(1950年)を考慮してギャグとして流すとしても

63p. そのとき私は、シベリアにいる日本の軍隊は、溜り水のように腐り切っている、新しい清水を流しこまなければ駄目だ、と思った。将校はもう規律を維持するなにほどの影響力も持ってはいない。新しい秩序と規律は、このシベリアでの生活そのもののなかから生み出さなければならないだろうし、そのためには古い形骸と化した軍隊的秩序をご破算にする必要があるだろう、と。
 その見透しは私にはあったけれども、自らその役割を買って出る気持ちはなかった。政治部員の喚問以来、私は事務と自分自身のなかに閉じこもることを心に決めていたのだった。

……蹴り倒したろかこいつ、とつい思ってしまいました。

もっとも、63p.のくだりについては、およそ120頁後に反省して改心、
著者はその後、転属を命じられ現場作業につくことに。
導入部の自己描写はどうやら後半への伏線だったらしい、
これは上手い構成だなぁ、私もまだまだ辛抱が足りん。
と思いきや。

そう、物の見方が変わったからといって、行動の様式まで変わるとは限らない、
それはそうだ。しかしそれにしても…
以前どこだかで目にした「くされ儒者」という罵言が
ついに最後(あとがきに至っても)まで頭の中をぐるぐると。

クリアな状況認識力と不甲斐なさとが同居している人、は実はかならずしも捨てたものじゃない、とながらく思ってきたのですが…甘い考えでした。

とりあえず、シベリア抑留ものに関しては講談社文芸文庫のチョイスに1票。

「いき」の構造

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本文52頁から58頁、「いき」の客観的表現についてのくだりを読んでいて、頭の中に飛来したのは中山美穂でした。
萬田久子でも吉永小百合でも桃井かおりでもなく。

引き合いに出される著作(ニーチェ、ベルグソン、フッサール、ハイデッガー、近松秋江、菊池寛、永井荷風などなど)をほとんどどまったく読んだことなくても面白い、のですがやはり元ネタを知っているとまた面白さ倍増かなと期待されます。

とりあえず、鯖書房の2人と1匹が「いき」とも「風流」とも縁遠いことだけははっきりと分かりました。この苦行が終わった後でもういちど読み返したいと思います。

茶の本

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てっきり骨董価値で威光をつけた「(実用書コーナーに並んでいるような)茶道入門」かなと憶測していたら大ハズレ、たぶんこの先もずっと不朽の
「脇役道」「脇役心得」または「脇役真髄」です。

冒頭で、異議申し立て先として「西洋」とされているのが流石に時代を感じさせます(英語版の原著は1906年・明治39年に出版。これが20年くらい前の日本だったらさしずめ「西洋→男」とでも脳内置換されて読まれたりしたのか…)が、「西洋→聞く耳を持たない人」と置き換えればまるきり今現在の著述としても読める。

いまひとつ自分の中ではっきりしていなかった「古典」の定義がおぼろげながら見えてきたような気がしてきました。
一見したところ時代遅れのようでも、ちょっと単語を変換しさえすれば、ちっとも朽ちてなどいない。
ひとまず条件その1ということで。