Archive for the 外国の小説 Category

全裸で

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とにかく、全裸で。

宇宙からきたナメクジ状の生物が人間にとりつく。とりつかれた人間はナメクジに支配されるが、一見したところふつうの人間と変わりない。肩の辺りにとりつかれるので、若干猫背かなぁ、という程度。なので、とりつかれた人とそうでない人とを区別すべく、合衆国大統領は「上半身裸体計画」を布告する。その後の調査でナメクジは下半身にも隠れることが判明したため、「上半身裸体計画」は「日光浴計画」に切り替えられた。まぁ脱げ、話はそれからだ。というわけである。

と書くと、まるでユーモア小説みたいですが、実際ユーモア小説です。引用してみましょうか。どこでもいいのですがまぁ適当なところで。

われわれは、あらゆる戦線で敗北を重ねていた、全裸で。彼らと直接戦うには、彼らをどれだけ殺せるかという確信もないのに、わが国の都市を爆撃しなければならなかった、全裸で。われわれの最も欲していたのは、ナメクジを殺して人間は殺さない武器、あるいは人間を活動不能にするか殺さず意識不明にしておいて、そのあいだに人間だけを救い出すことを可能にするような武器だった、全裸で。

注:「全裸で」は引用者追記ですよ、念のため

がしかし、ただのユーモアで終わらないのがさすがはハインラインで、ここからはネタバレになりますのでご注意下さい。

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宇宙の果てに愛はあるか

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レムコレ第一弾『ソラリス』。実は早川のも読んだことなくて初めてです。おもしろい。読んでない人は読んだ方がいいです。いや、むしろ購入すべき。装幀がかっこいい。

タルコフスキーの『惑星ソラリス』は、暗くて静かで白っぽくて(はい、わかりませんね)地球や地球人がたくさん出てきましたが(郷愁?)、原作の方はもっともっとソラリスに寄ってます。ソラリスはそんなに怖くないんですよ。映画ではもうハリーが怖くて怖くて。

もう一回映画を作るとしたら、今度はソラリス視点で進めてほしいです。原作に沿うなら自然とそうなるはず。ソラリス激白、赤裸々真実。人間は要りません。ラブ&ホラー、とか、生命の根源、とか、たんぱく質が、とか、洒落臭い、洒落臭いのです。「ソラリス、かく語りき」これで決まり。パイプ椅子に座らせて、2時間ぐらい自由に話してもらいましょう。

「………」

黙ってるなぁと思ったらもうとっくに始まってるんですね。直接意識に来るから分からないんですよ。自分で考えてるのか、ソラリスが語ってるのか。気がついたら左隣に恋人が座ってたりして、今日オレ、一人じゃなかったっけ?右向いたら死んだはずのじいちゃんがね。あれ?ロケットで飛ばしますよ?

映画館は大混乱ですよ。

まぁそれは置いといてレムのソラリスですが、最終章の「古いミモイド」がぼんやりしていて、違和感ありありで、これが作者のスタンスなのかなぁと。ケヴィンがミモイドの中で見るのは、地球の記憶の単なる残滓ではないと、私もそう思います。残滓ですらないと思うのです。宇宙の果ては、われわれが期待するような物語などに、微塵も頓着しない。そもそも、そんなものは最初からなかったのかも知れません。何といっても宇宙ですから、知れたものではありません。

シナリオライターの憂鬱

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出鱈目だ。ひどすぎる。物語に対して特別な思い入れがあり、『緑の家』を読んでやられてしまった人は読まない方がいい(そういう人はすでに読んでしまっているだろうが)。とても同じ作者が書いたとは理解できない。騙された!金返せ!サッカー場に火を放て!

奇数章で僕(若かりし作者)とフリア叔母さんとの恋物語、天才シナリオライターペドロ・カマーチョとの刺激的な日々。偶数章はその天才が書いたラジオドラマだが、どれも途中で放り出される。

それが途中からだんだんおかしくなって、互いに無関係のはずの各ドラマ同士が入り乱れるようになる。警官がまじない師として再登場し、死者は生き返る間もなく二度死ぬ。迫り来る暴漢は密航者(ここは(笑)が100個ぐらいつくところですよ)。天才シナリオライターは珍しく弱気となり告白する。「記憶が裏切るんだ…」。いや、ちょっと、裏切りすぎ。カマーチョ最高。

が、真骨頂はドラマ間の混交ではなくてやはり、奇数章の、偶数章への侵略であろう。物語が現実を、ではなく、現実が物語を侵す。現実は物語じゃないから、物語を好き勝手に侵すのだ。

「昨夜は何があったか知ってるか。舞台は山から下りてきた貧しい家族が経営するリマの古びた下宿屋だ。みんなでしゃべりながら昼飯を食べている最中に、突然地震が起きるんだ。ガラス窓や戸が震える音がして、叫び声が上がる。それがあんまり真に迫っていたんで、俺たちは腰を抜かしそうになったよ。」

昨夜起こったことが奇数なのか偶数なのか、誰に判断できるだろう。

「これはニュースじゃなくて、十一時のラジオ劇場ですよ。」

という科白を吐く人物が、ラジオ劇場の登場人物じゃないとでも?

マリオとフリアの恋の行方にも注目したい。いい加減な区長を探し求め、二人と援助者はペルー中を走り回る。なぜ、そんなにまでして、結婚せねばならないのか。これは、物語というよりもリアルであり、紛れもなく「ラブコメ」である。そして、最終章のこの懐古的な、それでいて乾いた感じは何だろう。

あらゆる自伝は、「自伝的」にならざるを得ない。物語が現実には困難だからだろう。『緑の家』よりも屈折していて、どちらかというと『緑の家』の方が好きだけど、こういうのもいいかなぁと思えます。いずれにせよ、すごいなぁ。破綻してなくて、律義です。

イエスと商人と断食者

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人は、食べないと死ぬ。
これは紛れもない事実である。もし仮に40日間飲まず食わずで生きている人がいたら、それは奇跡ではなくびっくり人間である。びっくり人間イエス様である。

人は、嫌になったら逃げる。
そう、手に手をとって。いつまでも従っていると思ったら大間違いだ。もし、いつまでも従っているように見えたら、それは従っていることに利があるからである。利ある限りギリギリまで我慢して、臨界点でさようなら。それだけの事実だ。

人は、卑怯な手を使う。
目的を達するためなら卑怯で、場合によっては姑息な手段を用いる。即ち、つまらない嘘を吐き、腕力でねじ伏せる。醜悪であるが事実だし、それで何とかなると思う。思い込んでは逃げられる。逃げられたってめげないだろう。そんな種類の鈍感さが商人には必要である。砂漠には必要である。

人は、言い訳する。
そのほとんどは自分に対する言い訳である。当たり前だ。他人など存在しない。存在するのは敵のみである。敵ではない他人はもはや他人ですらない。敵には言い訳する必要がない。優位な立場や威厳を守るための駆け引きは必要になるとしても。敵を倒せない時の言い訳はやはり、自分に対して吐かれる。優位な立場や威厳はつまり相対的なものではなくて絶対的なものだと言うことだ。

で、結局いちばん感情移入できたのは、言い訳する人だった。

(最低二回は)反復し、要約する

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原注に面食らう。最初の方こそ本文(アンリ・ロバン?HR?私?によって物された報告書。報告書?)に対する解説、注釈に過ぎないのであるが、徐々に領域を侵し始め、終いにはどちらが主でどちらが従なのか分からなくなる。分からなくなるのだが、確かに言えるのは、本文の話者と注釈者は敵対している、ということだ。いや、同一人物ですらある。まぁ大事なのはそういったことではない。

登場するのは双子だったり、偽りのパスポートだったり、何度も殺される被害者だったり、そもそも私は誰なのか。ロブ=グリエでないことは確かだ、と言おうと思ったらロブ=グリエが出てくる。「1949年」「東ベルリン」「特殊工作員」という時点ですでに謀られていることは予想されるが、母や妹が出てきて尋問したり拷問したりSM趣味などなくたっておかしな気分にはなるだろう。

結局のところ誰が誰に殺されて、それはいつなのか判然としないし、また、死んでしまうのは一度きりではない。二度である。必ず。二度死んで初めて死ぬ具合である。敵対すべき敵対者は父なのかと思ったらどうも兄弟のような感じでもあるし、分身、偽物、そっくりさん、旅人、私、そして彼であるとすら言える。「マルクス・フォン・ブリュッケ、またの名をマルコ、またの名《アシェール》を名乗る…」、嗚呼、名前なんて。拳銃だって女だって夢だって現だって、信じようが信じまいが、いいことなんてひとつもない。意味なんてないなんて言えない。物語をあきらめられない。ところどころにキーワードが隠してあってそれを探し拾い集めなければならない。頭文字を取っていけば、すべての謎が解ける仕組み。「は・ん・に・ん・は・お・ま・え・だ・!」はい。もちろん嘘ですよ。

何が何だかさっぱり分からない、ということはない。だいたい分かるから安心して読める。

律義に空間を論じる

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ランドルフィが分からない作家だとすれば、ペレックは分かる作家だ。言い換えれば共感できる作家だ。たぶんこの人とならうまくやっていけるだろう。エレベータや帰りの電車で一緒になってしまったとしても、話題がなかったとしても、特に困らず過ごせるだろう。

「できるだけ、もっと身近な空間について語りたい」とペレックは言う。空間といっても、私たちはXYZ軸だとか無限の宇宙だとかに興味があるわけではない。哲学だとか物理学とかでお茶をにごされるのは本意ではない。だからペレックは、「ページ」からはじめる。空間の内と外、前と後を描き、空間を読む。ベッド→寝室→アパルトマン→集合住宅→通り→地区→街→田舎→国→ヨーロッパ→世界→空間、といった具合に。「アパルトマン」や「通り」に対する情熱とは裏腹に、「国」や「ヨーロッパ」には恐ろしくそっけない。ほとんどページを割いていない。私だって「日本」とか「アジア」とかいわれても困るし、それはつまり空間として稀薄だからだろう。空間は必ずしもXYZのように均質ではない。

また、本書は極めて実用的である(カテゴリを外国文学にするか実用書にするかで迷ったくらいだ)。「アパルトマン」では部屋を一週間周期で分ける提案が行われる。曜日ごとに過ごす部屋を変えるのである。月曜室は洗濯場。火曜室はサロン、などなど。しかし、問題がひとつ。うちのアパルトマンには部屋が3つしかない。よって、日曜日は浴室に決定。

「生きること、それは空間から空間へ、なるべく身体をぶつけないように移動することなのである」。なるべくぶつけたくないとは思うが、結構ぶつけてしまう。それを気にするかしないかで、人間を分類することも可能だ。

まったくの余談、この翻訳本は少し縦に長くなっている(何という判型かは知らないが、この形は素敵だ)。クノーの『文体練習』と同じだ!と重ねてみたら、少しだけ違った。少しだけ違いましたよ。

人の恋路の邪魔をする

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まず分からないのは、ジョヴァンカルロがグルーに恋をするということだ。グルーの登場はあまりにも唐突である。

大学生ジョヴァンカルロは叔父一家宅を訪れ歓迎される。夕食を伴にしながら盛り上がるのはジョヴァンカルロの雇っている下女の悪口だ。叔父叔母従姉妹たちの執拗なまでの非難や罵詈は常軌を逸し、この時点で読者は奇妙な匂いを嗅ぎ取るわけだが、そこに現れるのがグルーである。

グルーに対する叔父一家の反応もおかしい。突然現れた赤の他人にびっくりするわけでもなく「一同はうれしそうな声をあげた」。なぜ来たのかも分からないし、彼女の足は山羊の足である。スカートからのぞくのは山羊のひづめなのである。まったく意味が分からない。しかも彼女は言う。ジョヴァンカルロをひじで指し、言う。「彼と一緒に出かけるために来たの」。

ジョヴァンカルロは怒り(意味が分からないものに対する反応として、怒りは妥当であろう)、動転し、口に出してしまう。「彼女は山羊の足をしているよ」。

しかし、一家が注目するのはグルーの足ではなく、発言者ジョヴァンカルロの方である。まるで狂人を見るように。叔父「は、は、きれいなあんよだねえ……」。

成り行き、ジョヴァンカルロはグルーを送ることになる。饒舌な彼女に戸惑う彼。この道行きは一体何なのか。ジョヴァンカルロは何に巻き込まれているのか。恋の始まりなのか。

断言できる。第一章とエピローグだけを読んで、途中の展開を予想するのは絶対に不可能。エピローグは、ふつうだ。あまりにもふつうの場景だ。二人の恋を邪魔したものは何か。第一章の不可能が、不可能として決着するのは何か。山羊なんだろうなぁやっぱり。めぇ。

これは加賀の金沢か

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都市とは何か。都市とは土地であり住人であり習俗であり文化である。生活であり、旅である。つまり都市は記憶の集積である。都市の対極にあるのは国家であり、それは幻想的である。

だから、マルコ・ポーロがフビライに語るのは、空想の都市ではない。見えない都市は実在する。都市を実在させているのは、柱、矢印、人々の気分、月光、張り巡らされた糸、野菜売りの女、ナツメグや干しぶどう、スパゲッティの食べ残し、泣く子を罵る声、空気代わりの土、どれもこれも具体的なものばかりだ。

都市というのは記憶そのものである。マルコは言う「どの都市のお話を申し上げるときにも、私は何かしらヴェネツィアのことを申し上げておるのでございます。」

都市はマルコの報告の中にこそある。実際アグラウラなどは、語られているほどには存在していない。アグラウラを例えば東京だとか金沢だとか京都だとか言い換えても同じことである。京都は比叡山の向こうに存在しているが、僕がそこに京都があると語る以上には、その都市は存在しない。モリアーナの都城が荒唐無稽なのは、龍安寺の石庭が出鱈目なのに似ている。そう思えるのなら、どうやったってそうとしか思えないということだ。

そこでひとつ疑問を抱くのは、フビライはどこでマルコの報告を受けているのかということである。都市は語りや名前の中に存在する。フビライの都市は、マルコに語られるまでは、たいして存在していないのではないか。フビライはマルコの報告を受けて作った帝国地図帖の中で、マルコの報告を受けているのではないか。

だとすれば、フビライはすでに最終到達点である地獄の都市にたどりついていることになる。地獄を受け入れ、その一部となっている。東京や金沢や京都を思う僕らもすでに地獄の一部なのではないか。地獄のただ中にあって、何が、誰が地獄でないかを見分ける方法は、誰が教えてくれるのだろうか。

待ちながら

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『夷狄を待ちながら』読了。っていつだっけ。二週間近くもご無沙汰してしまいました。待ちながらというのは主人公が女を待っているのだとばかり思っていましたが実はそうではなくて、そうではなくて、そうではないのなら、この表題の真意はどこにあるか。誰が夷狄を待っていたのか。夷狄の誰を待っていたのか。最後のお楽しみです。

風呂本として鮎川哲也『下り「はつかり」』(創元推理文庫)を読み始めました。風呂本にするには重いです。内容じゃなくて質量が。実はまだ短編集一冊しか読んだことなくて、それは『五つの時計』(創元推理文庫)です。タイトルの付け方が上手だなぁという印象です。『はつかり』はまだ最初の一篇(「地虫」)。これも上手です。カタカナで表記すべき文字がひらがなになっていて、だけどヒロインの名前はカタカナなので何か意味があるのかなぁと思っていたら、結局ないのでした。まぁそれはそれで。徐々に徐々に。

もったいない

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渋谷の旭屋でペレック『さまざまな空間』水声社を発見。昨年9月の出版であった。全然知らなかった。まぁペレック水声社だと新刊でも平積みは難しいか。一気に読むのはもったいないので少しずつ読むことにする。

いきなり

本書が対象とするのは、まったくの虚空というよりは、その周囲、あるいは内部にあるものということになろう(図1参照)

だもの。図1、なんだもの。

ぼくは書いている……ぼくは書いている、ぼ・く・は・書・い・て・い・る……と。「ぼくは書いている……」とぼくは書いている。ぼくは書いている、とぼくは書いている……。などなど。

などなど!だもの!全文引用したい衝動に駆られるが、大人なので我慢する。この全文引用したい衝動に駆られるという幸せ。生きててよかった剽窃者の弁明。

それにしても渋谷の旭屋は微妙に盲点というかいつも地下2階にしかいってなかったので、地下1階があるなんて知らなかった。いや、たぶん知ってはいたが無視していた。ちゃんと寄ろう。

通勤本は相変わらずクッツェー。いい加減にしよう。それからついに電撃文庫に手を付けつつある。つつある。