Archive for the 哲学 Category

黄表紙

Posted in 哲学 | No Comments »

先月の観光みやげに買いました。

金閣寺が禅寺だったことに意表をつかれ金閣寺限定販売キティキャンディ(缶入り)のペカペカ感に動揺させられ、いろいろと面白かったのですが、いちばん度肝を抜かれたのはこの小冊子でした。
英語表記で見ると膝を折られるような気分になるのは何故かといったことはともかく、目にした瞬間に二人して表紙買いを確信させられました。相談するまでもなく。
無難な栗入り生八ツ橋とかちょっと良いけど予算1桁超過の香炉とかはもうどうでもよい、これだけで今回の遠出は元を取ったと満足。
色に目が眩みました。
もし表紙が龍安寺石庭の写真とかであったなら見過ごしていたでしょうおそらく。

肝心の本文はといいますと、「般若心経」以外の原典をまったく読んだことが無いのであくまで憶測ですが、たぶん英語で読まされるほうが分かり易いのではないかという気がしました。
細部のニュアンスはともかく、座禅の本筋を大まかに把握するには。

ただ。
「十牛図」はもうまったく、さっぱり、脈絡不明でした。
百頭女でもここまで訳が分からないことはないのでは…。
日本語版でも同様にクラクラするのかどうか、相方の蔵書にあるようですので、あとはあちらに振りたいと思います。

※ISBNは付いていませんが、発行元から直接購入可能です。
(→禅文化研究所HP)

現在のフランス国王は禿である

Posted in 哲学 | No Comments »

ラッセルがバランスの人だということがよくわかった。

心か物質か、たいがいの人はどちらかに振れてしまうものであるが、ラッセルは中性一元論を編み出して、その危機を乗り切った。

モレルかウィトゲンシュタインかという選択においてもそうだ。たいがいの人はどちらかに寄り切ってしまい、身を持ち崩したりするわけであるが、ラッセルは見事に等距離を保った(と信じる)。モレルはたぶん喜んだ(と思いたい)が、ウィトゲンシュタインからは激しく批判された。

ラッセル・アインシュタイン宣言に「人類」という言葉が頻出するのに対しラッセルは、「人類」という概念は抽象的すぎて、一般の人には親しみが感じられないのではないか、それが戦争をやめられない原因なのでは、と心配したという。理想言語と日常言語についても、どちらが素晴らしいとかどちらが本物であるとかを、決めつけてしまわずにうまい具合にやれたのは、ラッセルだからなのではないか。

中性一元論って、誰もがうっすらと考え浮かべていることなのではないだろうか。やっぱりな、身体に魂が宿るとか、客体は主体の中にあるとか、リアリティがないもの。お話としてはうまくできてるんだろうけどね。

実体なんて誰も信じてないのに、信じるふりをしているのはなぜか、その方がむしろ不思議だと僕は思うのだ。

で、中性一元論って?

生きていく技術

Posted in 哲学 | No Comments »

哲学というと「何のために生きるか」とか「我とは誰か」とか「世界をいかに認識するか」とかそういった問題を解く学問だと思われがちですが、いっそのことそういった問題を解く学問だったらよかったのになぁと、本書を読んで私は強く思いました。

一言でいうと哲学は無意味。いや、無意味ですらなくナンセンス。ウィトゲンシュタインに万歳三唱。

哲学科の新入生がいきなりこの講義を聴いたら惑うし場合によっては萎えるのでしょう。ただしそれはいずれ通るべき道。哲学が病であるとしたらそれは「恋する私は狂っている」とか、そういった類いの病なのです。治らないものではない。治るのが幸せかどうかは、その人の気質によるのでしょうが、治るべきでない人が治ってしまうよりも、治るべき人が治らないほうが、よりいっそう不幸であるような気がします。私自身はおそらく治るべきでない人間で、たぶん治ることはないと思われます。というのも「我思う、ゆえに我あり」というのは学究的な真理ではなく、運に恵まれた人が辿り着くひとつの体験だと考えるからです。強度といってもいいのかも知れません。だから間違ってても死なないし、「沈黙せねばならない」一方で、「現在のフランス国王は禿だ!」と国中に触れて回るのでしょう。

ただ、やっぱり、社会人として生きていく上では、哲学(むしろ形而上学)を括弧に入れる技術は必要です。「私は存在するのか」で悩むことはないにしても、「この書類を決裁したのは本当に上司なのか」とか「この印鑑の印影はこれであるために必要な条件とは」とか「この電話の相手と昨日会った相手が同一人物であることの根拠は示せるか」とか程度の疑問はいくらでも涌いてきます。それをうまく留保した上で(解消できればベストですが)、仕事をこなすというのは存外難しいです。難しいと思うのです。難しいと思うのですが違いますか。

健全な社会生活を営むための技術書としてむしろ、本書をすすめます。そうです。これはテクニックなのです。だから、本書は哲学とか岩波とかの棚ではなく、ビジネス書コーナーに陳列されるべきです。装幀が岩波としてはかなり柔らかいのも、そういった意図があるからではないでしょうか。できればネガティブめの自己啓発とかそのへんで。カーネギーとかナポレオン・ヒルとかの隣は不可です。倒れそうになりますので。

ニセ記憶はいかにして芸となるか

Posted in 哲学 | 2 Comments »

どうでもいい記憶なんてものは存在しない、とフロイトは言う。「憶えていること」について、なぜそれを憶えているのか必ず意味がある、と。以下、「隠蔽記憶について」(『フロイト著作集 第6巻』所収)より。

幼時記憶を語る38歳の男性。

野原が見える。たくさんの黄色い花が咲いている。明らかに普通のタンポポだ。野原の向こうには農家があり、農婦がおしゃべりをしている。
野原では三人の子供が遊んでいる。幼い頃の私と、年上の従兄とその妹。妹の方は私と同い年。
私たちは黄色い花を摘んでいる。いちばん美しい花束を持っているのは少女で、私と従兄は彼女の花をひったくる。彼女は泣きながら農家のほうへ駈けて行き、農婦から慰めに大きな黒パンをもらう。
それを見て私たちは花を投げ捨て、農婦の元に駆けて行き、同じようにパンをねだる。もらったパンは記憶の中ではとてもおいしく、幸せのうちにこの場景は終わる。

この男性は、実はフロイト自身である。一見、何でもない(花を奪う、パンをねだる)幼時記憶が彼にしつこくつきまとっていたのはなぜか。

この記憶は幼児期から繰り返し思い出されたものではない。17歳のときに彼の故郷であるモラビアの小都市(フライベルク)を訪問したのがきっかけとなり、思い出されるようになった。彼は両親の友人であったフルス家に泊まるが、その家の娘で幼なじみだったギセラと再会し、彼女に恋をしてしまう。しかし、彼は一言も話しかけることができなかった。そこで彼は、もし自分が幼少の頃に故郷を去ることなく、ギゼラとともに育ったならば、彼女と結婚することができていたのではないか、という妄想を抱くに至る。

この初恋話は後に、腹違いの兄であるエマヌエルの娘、パウリーネとも結び付く。

フロイトの父とエマヌエルは、フロイトを実業に就かせるために、パウリーネと結婚させる計画を持っていたが、その思惑に反してフロイトはウィーンで医学生となる。ウィーンでの貧乏生活。彼はやがて、パウリーネと結婚して実業家になるというすでに失われた機会を妄想するようになる。

二つの空想が投影され、一つの幼時記憶が生まれる。ギゼラから奪ったタンポポの黄色は、パウリーネが好んでよく着ていた服と同じ色だった。もし故郷に残ってギゼラと結婚していれば…。父の計画どおりにパウリーネと結婚していれば…。つまり「花を投げ捨ててパンを手に入れる」というのは、「学問を投げ捨てて実業家になる」ということの偽装である。

そうなると例のタンポポは幼時の記憶ではなく、彼の空想に過ぎないのではないか。

そもそも記憶の陳述に保証というものはない。しかしフロイトは、この記憶は本物だという気がしてならないと言う。

彼が無数にある場景の中から黄色いタンポポを選んだのは、それが彼にとってはギゼラとパウリーネという二つの空想を述べるのに最も適していたからである。

記憶は何でもかんでも呼び出すのではなく、与えられた印象の中から一定のものだけを選択する。その選択基準が幼児と大人とでは全然違うように思われるが、必ずしもそうではない。幼時記憶にどうでもいいようなものがあるのは、実はある「ずれ」の結果なのである。どうでもいいような幼時記憶は、他の本当に重要な印象の代用に過ぎない。そしてこの、どうでもいいとしか思えないような幼時記憶を、フロイトは「疑似記憶」と呼ぶ。

やっとたどり着きました。この「疑似記憶」の「ずれ」が、これと似ているのではないか、という話です。

つまり、本当に大事なことは隠蔽されている、ということです。

ど忘れにせよ疑似記憶にせよ、想起行動の故障という意味では同一の行為です。では、なぜ、故障するのか。そこに抑圧があるからです。いや、ここで、抑圧って言っちゃうから、精神分析はあやしくなるのですね。単に、「出てこない」でもいいと思います。

この「出てこないもの」を出す技術。そしてなぜ「出てこない」のかを分析する技術。これの取っ掛かりとして、フロイトは「夢」を持ち出します。夢が荒唐無稽であるにも関わらず、妙に現実と呼応するのは、現実を隠れみのとして、出したくないものを隠そうとするからです。寝ながら笑っている人は、みている夢ではなく、隠そうとしているものがおもしろいから、笑っているのです。その隠そうとしているものを好きなように出すことができれば、芸ですね。それは芸ですよ。

というわけで、「精神分析は芸なんです」が今日の結論でした。

まだ解けてない

Posted in 哲学 | 2 Comments »

数学の問題や解答はしばしば、エレガントということばにより修飾される。私が乏しい知識で例を挙げるよりも、「エレガント 数学」でグーグル検索してみれば瞭然である。特に証明問題においては、エレガントでなければ数学にあらず、とさえ言えるのではないか。少なくとも、エレガントに証明する数学者はかっこいい、というのは事実だろう。そして、このエレガントさは証明すべき命題がシンプルであればあるほど際立つように思える。そういう意味で「四色問題」は、エレガントへの期待を高めてくれる。

四色あれば、どんな地図でも
隣り合う国々が違う色になるように
塗り分けることができるのか?

1852年にフランシス・ガスリーという人が、イングランドの地図を塗り分けるには4色あれば足りることを発見する。それから、ケネス・アッペルとヴォルフガング・ハーケンが1976年に証明を発表するまで、たくさんの数学者が間違った証明を行い、条件付きの証明を行い、周縁問題の証明を行った。誰も解けなかったこの問題をアッペルとヴォルフガングはどうやって解いたのか。彼らはコンピュータを使った。延べ1000時間にも渡る膨大な計算をさせたのだった。

二人の証明については賛否両論あった。同じ問題に取り組んでいたライバルでも彼らを讚える人や、証明とは認めない人もいた。ただ、誰もが思ったであろうことが、ひとつだけある。それはこの問題の本質であり、そして、アッペル自身こう語っている。

「これはひどい数学だ。数学は、エレガントであるべきなのに」と言う人がいた。わたしもそれには同感だ。簡潔でエレガントな証明ができれば、それにこしたことはなかった。

エレガントでない証明が証明としてうれしくなければ、証明されたこと自体に価値を見出したいところだ。つまり、四色あれば塗り分けられるという事実そのものに。しかし、地図屋さんは地図を四色で塗り分けることに、さほど熱心ではないらしい。米国議会図書館のあらゆる地図を調べてみた数学史家のケネス・メイがそう結論している。四色に納めようとする気概は感じられず、たまに四色だと思ったら、実は三色でも塗り分けられる地図だった、とか。

コンピュータを使わないで証明しようとするなら、まったく違うアプローチが必要で、そのアプローチについては未だ発見されていない。ということは、四色問題、もしかして未解決?

塗り絵に夢中の幼児が、バブー!とかって解決してたり。5色じゃないと塗り分けられない塗り絵を塗っていたり。反例はそういうところに、見つかるのかも知れないですよ。

錯誤行為

Posted in 哲学 | No Comments »

言い間違い、ということについて考察する機会を得、愛読したフロイトを再度(二度三度?)ひも解いてみようと思った。『日常生活の精神病理』(フロイト著作集4)か『生活心理の錯誤』(フロイド選集13)どちらかを持っているつもりだったのだが、いくら探しても見つからない。売ったかなぁ。気を取り直して『精神分析入門』を開いたり、古い記憶(記憶!)を呼び起こしてみたりする。

フロイトが『精神分析入門』の第1部で「もろもろの前提を論ずることではなしに」取り上げたのは、錯誤行為であった。実際に彼が錯誤行為に注目したのは、『夢判断』以降のことと考えられるが、一般向けの講義であるということで、まずは比較的わかりやすい錯誤行為について論じたのであろう。

フロイトのいう錯誤行為とは、言い違い、書き違い、読み違い、聞き違い、度忘れ、もの忘れ、思い違いなどのことであるが、これらが起こるメカニズムはどれもほぼ同じであり、いずれも「本人の意識的な意向とこれを妨害しようとする無意識的な意向との衝突によって起こる心的行為である」とフロイトは言う。自分の中で意識と無意識がせめぎ合ったその結果である、というわけだ。

例えば、ある大学教授は教授就任の講義の中で、「私には、わが尊敬する前任者の数々の功績のことを述べる資格はありません」と言うつもりだったのが、「資格はない」と言う代わりに、「気持ちはない」と言ってしまった。「述べる気なし」と。要するに、前任者が嫌いだったのだろう。教授の無意識的な気持ち(妨害しようとする意向)が、就任の挨拶(意識的な意向)に取って代わって出て来たのだと言える。

錯誤行為は三つの種類に分けられる。

一つ目は、妨害する意向を当人が知っていて、行為の前に気付いている場合で、二つ目は妨害する意向を知ってはいるが、それが行為の直前に活動していたことは全く知らない場合である。この二つの場合、例えば言い違いであるなら、これだけは言ってはならないというようなことに限って、つい口をついて出てしまう、というようなことである。つまり行為者がその意向を口に出すまい、と思った直後に、あるいは少し後に言い違いが起こる。さっきの大学教授の場合はおそらく第二のケースだろう。

三つ目は、妨害した意向について指摘されると、当人は激しく拒絶し、そんなことはありえない、絶対にありえない、と主張するような場合である。この場合も基本的には前の二つと同じメカニズムなのだが、妨害する意向が遥か昔に抑圧されたものであるため、当人は激しく否定するのである。
要するに、「何かをしようとする意図を抑圧することが錯誤行為の原因」というわけで、つまりは、間違いにも何かしらの意味があるってことです。

そこで激しく疑問なのだが「インジェクト」って何?たぶんこのいい間違いをする人に、「インジェクトって何?」って聞いても「知らん」というだろう。「このハガキのことじゃないのか」というだろう。ここに!間違い当人が抑圧してしまって、全く意識することのない事実が存在する!存在するはずだ!

まぁどうでもいいや。

調子に乗ってきたので、そのうち「疑似記憶」についても書きたいと思います。