Archive for the イギリス文学 Category

嵐が丘 (下)

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二代目キャサリン少女期の一人称は「あたし」でした。
何をどう経て結婚後(上巻冒頭)の「あたい」に変わるのか、この辺の機微を思いめぐらしてみるも想像力及ばず。

あまりにも有名で大まかな設定だけは知っていたものの手に取って読むのは初めてだったのですが、予想したほどオカルトでもサスペンスでもありませんでした。
そもそもどこで陰惨激越な怪奇愛憎劇との刷り込みを受けたのか…。

嵐が丘 (上)

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最寄り図書館の蔵書事情により、1960年版の旧訳です。
読点の打ち方のせいか、たしかにスラスラと読み進める訳文ではありません。
しかしスピード感が要る内容ではないだろうし、訳者まえがきの家系図に助けられつつゆっくりと読みました。

むしろ二代目キャサリンの一人称が「あたい」だとか、あくまでも「ている調」でなく「とる調」で話す少年ヒースクリフに違和感を覚えるかどうかが高いハードルかもしれません。

サロメ

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ビアズリーの挿絵さえ無ければ…。

せめて4ページ目だけでもすっとばして読んでいれば。
どうしてもサロメに無精ヒゲが生えているようにしか見えません。

ヴェニスの商人

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話の筋が格別に入り組んではいないうえに、どの登場人物もセリフがいちいち長いので、目で読んでいるとつい、すっ飛ばしてしまうのでした。
劇として耳で聴くのならこんな罰当たりなことにもならないのでしょうか。
しかし、上役のギャグに付き合うのがしんどい、というのはこういう気分なのかとも、ちょっと思いました。

ヘンリ・ライクロフトの私記

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それほどには名を成すことなく50代のはじめにして隠居にはいった作家の手記、という体裁。

17p.  私の書いたものは1ページとして後世に残る価値のあるものはなかったからである。私は今、これを少しの忿懣もなしにいうことができる。要するに若気の過ちであったのだ。…(中略)…世間が私を不当に扱ったなどとは少しも思ってはいない。ありがたいことには私も賢くなって、世間をこんなことで恨もうなどとはもうとう思わなくなった。

冒頭はこんな調子、まるで美しき老い方のススメのようです。
しかしずっとこんなだと話が続かないのか、若い頃の貧乏話やら今現在への批評やら、ほとばしるような意見が次々と。

はじめのうちは、もし、佐藤友哉が30年後にこういう落ち着き方をしたらちょっとがっかりするかなぁと考えたりしたのですが、読み進むにつれて、これはむしろ(読者としても)決して悪くない、あり得る方向かもしれない、と思いました。

ダブリンの市民

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何を置いても「アラビー」。清兵衛と瓢箪で私が勝手に期待した愛が、19世紀末のダブリンにありました。

バザーに行けないという女の子に対し、少年特有の照れからそっけない態度をとりつつも、「もし行ったら、何か買ってきてあげる」と、請け負う「ぼく」。この時からアラビーという名のバザーは彼にとっての至上命題となる。しかし。アラビーは遠い。物理的にではなく身体的に遠い。叔父はアラビーの価値に気づかないし、時限は刻一刻と迫る。アラビーの価値可能性を仕方なしに悟った叔母の援助により何とかアラビー行きを実現するものの、結局知ることになるのはアラビーの無価値性だった。少年ゆえの無知と無力によるあわれ。

「対応」のファリントンや「痛ましい事故」のミスター・ダフィーや「死者たち」のゲイブリエルも確かに哀しい。しかしそれは無知ではなく無理解ゆえの哀しさなのです。いや、むしろ痛い。共感して戦慄する種類の痛みです。痛ましいのは事故じゃなくてお前だと突っ込まれうる。突っ込まれれば目が覚める。つまり、気づきうるのです。しかし、アラビーの「ぼく」は、ただ知らされるだけ。知らなかったことを知らされるだけ。知らされてそこに残されて、結局は流されるのです。あえて言うなら、ここに萌えが存在します。

グッとくるのです。

トリストラム・シャンディ (下)

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未完だというのは訳者による前書きにあったので知ってはいたのです。が、よりによってあんなところで終わるか。牛で終わるか。モウケッコウ、って駄洒落か。

結局トリストラムは単なる語り手に終始して、主には叔父トウビーの恋物語でした。総天然色のトウビーと存外に世間擦れしている伍長のコンビは絶妙ですね。向かうところ敵なしです。

で、下巻の読みどころは、ボヘミア王とその七つの城のお話。ある種の基本です。ドリフ的なものに通じるかも知れません。

返す返すも未完が惜しい。トリストラムの生涯がちっとも出わってこない。他のキャラクターも活かす余地が残ってしまった。漱石でもジョイスでも誰でもいいから、続きを書いてくれないかなぁ。

トリストラム・シャンディ (中)

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トリストラムがついに産まれました!よね?

スラウケンベルギウスっていう誰やねんって人の話が唐突に始まって、吐かれる科白は「やんぬるかな!」 どないやねんと思いますね。で、「スラウケンベルギウスの物語 終り」ですしね。何なのかと。鼻なんですけどね。

さて、中巻の読みどころはズバリ「白熊」。全文引用したい衝動を抑えつつ部分引用します。トリストラムの父に「いざ必要になったら、白熊の話をすることぐらいできるだろうな?」と問われたトリム伍長の独白。

白熊!はい、よろしい。わしは見たことがあったっけかな?
…それならばわしは白熊の皮は見たことがあるだろうか? 絵に描いた白熊は見たことがあるだろうか?ー白熊を書いた文章は? 白熊の夢も見たことがないだろうか?…
ー白熊は見る価値があるのか?
ー白熊を見ても罪悪にはならぬのか?
白熊と黒熊とどっちが善良なのか?

よくよく考えると、僕も白熊を見たことがない。だけど、白熊黒熊どっちが善良の問題については、一家言もっといたほうがいいかもな。

トリストラム・シャンディ (上)

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とりあえず、トリストラムはまだ産まれていません。

表題を直訳すれば『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』のようですが、正確には『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見とその周辺』といったところ。「意識の流れ」ではなくやはり「物語の流れ」、意識は通常このようには流れません。ただし、物語は理想的に流れます。他の物語たちが断念せねばならなかった支流をもあきらめることなく。

読みどころ満載ですが「悪態」の蒐集に関する下り(とそこに至る流れ)と「鼻」の仮説に関する考察(とそこに至る流れ(とそこからの流れ))については特に拘泥したいところです。「鼻」については上巻(原書では第三巻)では収まりませんでした。おそらくこのまま結論は出ないと思いますが、「鼻が妄想を生むのか、妄想が鼻を生むのか」の問題についてはゴーゴリが詳しく論じているところですので、いずれまた、ねっとりと。

トーノ・バンゲイ(下)

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下巻こそ「トーノ・バンゲイ」炸裂を期待したのですが、実際のところは「ジョージ・ポンダレヴォーの恋愛論」じゃないですか。しかも「失敗例に学ぶ」とか何とか吹き出しでもつきそうな。

上巻の終わりあたりで「トーノ・バンゲイ」からは身を引いた「私」は、徐々に空中飛行の実験に身を入れはじめます。それがまさか、あのような形で実を結ぶことになろうとは。さすが。SF作家の面目躍如です(関係ないか)。

余談。下巻を読み進めていくうちに、妙な違和感がふつふつと。いや、むしろ上巻にはあった違和感がなくなってしまったような気が…。何だろうなぁと思ったら、字体でした。上巻は旧漢字だったのが下巻は新漢字になっているのです。奥付を見てみると、上巻の初刷が1953年なのに対し下巻は1960年。翻訳者いわく「公私のさまざまな事情により」とのことですが、そんなときこそアレの出番ではないですか。

「タ〜イ〜ム〜マ〜シ〜ン!」

ぴかぴか。