Archive for the アメリカ文学 Category

ユリイカ

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SFだといわれると、SFなのかも知れない。真理にいかほどの価値があるのかという話。

「わたしの死後、この作品がもっぱら詩としてのみ評価されんことを切望」していたことからも、そもそもポオは真理というものを放棄していたことがうかがえる。真理を諦めたのではなく、真理を捨てた。

ポオは直観を、「帰納と演繹に由来しつつもその過程がわれわれの意識に上らないため、表現力を越えたところにある確信」と定義する。ここですでに、捨てている。

神が最初につくったのは、「およそ考えられうるかぎりの単純さの状態にある物質」である。考えられうるかぎりというから考えてみるのだが、それが何をどう意味するのかはさっぱりわからない。世界はいかにも複雑にみえる。単純という概念そのものがすでに神々しい。それは真理よりも神にふさわしい。

私に技術があったら、この作品を映画化したいと思う。とくに太陽系生成の下りはドラマチックではないか。

黄金虫・アッシャー家の崩壊

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アッシャー家はどうすれば崩壊しなかったのか、考えてみた。

屋敷の老朽化が進んでいた。補修、改築、建て直しを検討すべきであった。ただ、最近は悪徳な業者も多いというし気をつけねばならない。

次に、アッシャー。陰気。

「僕は死んでゆく」と彼は言った。「こんな惨めったらしい羽目で死んでいくのが僕の宿命さ」

はいはい。わかったわかった。

あと、沼。おあつらえ向きの沼。さっさと埋めちゃえばいいのに。

で、とどめがマデリン姫。姫て、姫? 噂の姫子? まあそれはいいとしてこの姫が最後の一撃を振り降ろす。

話は変わりますが、日本にはお通夜という習慣があります。広辞苑には、「死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体の側で終夜守っていること」とあり、お葬式の前に近親者のみで故人にお別れをする、という意味があるのでしょう。

この通夜をな、アッシャー家もやっときゃよかった。一説によると、そもそも通夜というのは「死者が本当に死んでいるか確認するため」行われるようになったのだそうだ。

アメリカ名詩選

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自分に詩心がないことはわかっていたつもりですがそれにしても、予想以上にピンとくる詩が無いなぁ、とうつらうつらしながら読み進んでいたら不意に。
やはり100も集められていればひとつくらいは、ぐっとくるのがあるものです。

[49]ちょっとひと言/ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ

冷蔵庫に
入っていた
すもも
たぶん君が

朝食の
ために
とって置いたのを
失敬した

ごめん
うまかった
実に甘くて
冷たくて

人間とは何か

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数年前に『アダムとイヴの日記』を読んだことがあるきりで、ああいう結末を書く作家のどこが「ペシミスティック」(カバー解説)なのか、ちょっと腑に落ちなくて手に取りました。
しかし読了した今もやはり釈然としません。
結婚と洗濯機えらびとのあいだに大差は無いとする『結婚の条件』(小倉千加子著、朝日新聞社)を「ペシミスティックな人間観」と解説するならまだわかるのですが。

ビアス短編集

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終盤ばかりを切り取った短編集で、切り取り方がいかにもジャーナリスティック。ラジオニュースか新聞のような感じで流れる。最後の瞬間に起こるであろうすべてのことが、これ以上ないくらい客観的な手法で語られる。

例えば「アウル・クリーク鉄橋での出来事」。

アラバマ州北部のある鉄橋に、ひとりの男が二十フィート下の急流を見おろして立っていた。

から始まり、最終段落、

ペイトン・ファーカーは…(以下略)。

に至るまで、登場人物や作者の主観を排除し、ただただ場景の描写に徹している。

「チカモーガの戦場で」にしても、主人公が6歳の男の子であるため、視線は低いところを動いているようであるが、決して男の子の目を通してはいない。

このストイックな手法が、短編の肝である「落ち」で、劇的な効果を生んでいる。哲学者にも非哲学者にも、お終いは等しく訪れる。ああ無情。

と思って読んでたら、母殺しの罪に問われた「ぼく」が裁かれているのは<無罪裁判所>で、検事が証言に異議を申し立てると、裁判長は「文句があるなら<不服裁判所>に行け」と。何じゃこりゃ。ビアスってこういうのも書くのですね。無情というよりも無常ですね。まるで人生のようですね。

ねじの回転 デイジー・ミラー

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アメリカ代表デイジー・ミラーは、真意のつかめない女の子キャラクターとして秀逸に描写されていると思うのですが、何と言っても読みどころはヨーロッパ代表コステロ夫人。ミラー家を評して。

「ひどく下品なのが悪いか悪くないか、そんなことは哲学者の先生にでも考えていただくことにしましょう。とにかく私が嫌うには充分なくらい悪い人たちですよ。短い一生なのだから、それで充分じゃないの」

人生は短い。付き合いたくない人に付き合っている暇などない。

古典に対してこんな言い方もないですが、『ねじの回転』というのは実にうまいタイトルです。一回転か一回転半かで、内容がまったく異なってしまう。私は一回転半の家庭教師妄想説をとりたいです。でないと単なるオカルト幽霊譚になってしまう。と、言いたいところですが、一回転半の場合、ラストの説明に困るのです。語り自体が手記で、その手記を受け継いだ人もすでに故人。どこを信用するかはもはや趣味の問題なのかも知れません。