Archive for the 黄版 Category

近世畸人伝

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殆ど全編通して道徳の教科書というか、閑居して不善を為さなかった人たちや忠孝な人たちの紹介(もちろん賞賛調)です。

実は猟奇な方を期待してタイトル買いし、

(p. 18) 仕官の人の少なきは、奇は大やう窮厄の間に聞て、得意の人に稀なれば也。

この前書きをあたら曲解していよいよ期待を膨らませたのですが。
まったくの見当ハズレでした。

新訂 梁塵秘抄

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同窓生からの便りに「最近読んだ中でお薦め」とあり、近所のブックオフでかなり良い状態のを見つけたので早速。

……なにぶん、1冊で起承転結といった本ではないだけに、さてどのあたりを話題として返信したものか頭を抱えています。
うっかり選ぶとえらい地雷を踏んでしまいそうな歌も少なくないような。

東関紀行・海道記

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何か昔ならではの事や物に出くわすのかと期待したのですが、あまり、そのような記述は無く。

だいたい同じような道筋(京都→鎌倉)で旅行しても、何を書き記すかは人によってここまで違います、という、非常に対比の鮮やかな1冊です。

一寸法師・さるかに合戦・浦島太郎

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お婆さんがお爺さんを雁とまちがえて殺してしまったまではともかくとして、煮て食べる際までそれに気づかなかったというのがちょっと目新しいなと思いました。
どうしても噛み切れない部分があるとつまんでみたら耳だった。(「雁とり爺」)

食材としての耳はそんなにかたいのか、とちょっと試してみたくなったのですが、
唯一なんとか入手できそうな豚の耳は、どうやら固くないらしく、

(→畜産ZOO鑑:豚肉の利用)

牛の耳は、肉屋で見掛けたことはないような…

新訂 徒然草

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文体を変えて、引き合いに出される固有名詞もいくつか取り替えれば、現代男性作家のエッセイと銘打たれてもきっとほとんど違和感ありません。

五木寛之よりもややうるさがた、老荘寄りの傾向からすると中野孝次あたりか。養生訓の段は林望を思い出させたりも。
そのくらい代わり映えしない感じがするということです。

口調はびっくりするくらい移り変わっても人の考え方のバリエーションはそうめったに変化しないのか、
この岩波文庫企画を始めてからすでに幾度か思ったことですが、でももうちょっと新鮮な発見が欲しいような。

さてそれでは、仮にブックオフの105円コーナーに岩波文庫版『新訂 徒然草』と文春文庫版の中野孝次著『清貧の思想』の両方を発見し、
どちらも同程度に状態が良く(実際に私はこのかなり美品の『徒然草』を105円で購入しました。流通量が多いゆえの安さと推測されます)、
そして、もし1冊分のお金しか余裕がなかったら、岩波文庫読破企画もなく、『清貧の思想』も未読だったら、どちらを買うか。

私ならおそらく『清貧の思想』を選びます。
パラパラとのぞいてみて、似たようなことが書いてあるなら、より読み易いほうを、たとえ話にうなずきやすいほうを選びます。
易きに流れがちな根性無しとしましては。

すでに書かれた内容の繰り返しだとしても、やはり新作も無用ではない、古典さえあれば良いってものでもない、と強く思った次第です。
根性無しとしましては。

全般的な話はさておき、問題は第百六十二段(遍照寺の法師)です。

………怖い。
こんな怖い光景描写をひさしぶりに見ました。
「ねこまた」段のような
オチはありません。

和泉式部日記

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最初に書かれた動機はともかくとして、なぜこれを書写して後々まで伝えたのか、さっぱりわかりませんでした。
道具立てはまるで暴露本と変らないように思えてしまうのですが。

竹取物語

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そもそも姫の方にまったくその気が無いのでは、財力権力武力はもとより誠実さも、決め手にはならない、という冷厳な話か。
しかしシビアというにはダジャレが多過ぎるような気も。

それはさておきショックだったのは、カバー解説によると「他の平安時代の物語に比べてはるかにわかりやすい」らしいことです。

解説込みでも100頁に満たないというのに、私には恐るべき催眠力の一冊でした。
黄版は押し付けあいになりそうだなと予想してはいましたが…。

方丈記

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仮の住まいだと思ってたところにひきこもり、これが存外心地いいではないか、という話?

たゞ仮の庵のみ、のどけくして恐れなし。程狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。

なわけですが、最終的には

仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。今草庵を愛するも、閑寂に着するも、障りなるべし。

と言い出すのですから、いつまでもひきこもってちゃダメ、何ごとにも執着しちゃダメ、ってことでしょうか。すみません正直よく分かりません。

万物は流転し不変のものなどないとはいえ、「ゆく河」が下鴨神社からほど近い鴨川を指すのだとすれば、800年経った現在でも変わらず流れており、そう、物は壊れるし人は死ぬんだけども歴史という大河は脈々と流れつづけている。まぁいつかは河も流れるのをやめるわけですが(歴史なんてものはすでに枯れ果てているのかも知れません)、僕が生きている間はそこに流れていてほしいと思ったりもするわけです。