Archive for the 赤版 Category

嵐が丘 (下)

Posted in イギリス文学 | No Comments »

二代目キャサリン少女期の一人称は「あたし」でした。
何をどう経て結婚後(上巻冒頭)の「あたい」に変わるのか、この辺の機微を思いめぐらしてみるも想像力及ばず。

あまりにも有名で大まかな設定だけは知っていたものの手に取って読むのは初めてだったのですが、予想したほどオカルトでもサスペンスでもありませんでした。
そもそもどこで陰惨激越な怪奇愛憎劇との刷り込みを受けたのか…。

嵐が丘 (上)

Posted in イギリス文学 | No Comments »

最寄り図書館の蔵書事情により、1960年版の旧訳です。
読点の打ち方のせいか、たしかにスラスラと読み進める訳文ではありません。
しかしスピード感が要る内容ではないだろうし、訳者まえがきの家系図に助けられつつゆっくりと読みました。

むしろ二代目キャサリンの一人称が「あたい」だとか、あくまでも「ている調」でなく「とる調」で話す少年ヒースクリフに違和感を覚えるかどうかが高いハードルかもしれません。

ユリイカ

Posted in アメリカ文学 | No Comments »

SFだといわれると、SFなのかも知れない。真理にいかほどの価値があるのかという話。

「わたしの死後、この作品がもっぱら詩としてのみ評価されんことを切望」していたことからも、そもそもポオは真理というものを放棄していたことがうかがえる。真理を諦めたのではなく、真理を捨てた。

ポオは直観を、「帰納と演繹に由来しつつもその過程がわれわれの意識に上らないため、表現力を越えたところにある確信」と定義する。ここですでに、捨てている。

神が最初につくったのは、「およそ考えられうるかぎりの単純さの状態にある物質」である。考えられうるかぎりというから考えてみるのだが、それが何をどう意味するのかはさっぱりわからない。世界はいかにも複雑にみえる。単純という概念そのものがすでに神々しい。それは真理よりも神にふさわしい。

私に技術があったら、この作品を映画化したいと思う。とくに太陽系生成の下りはドラマチックではないか。

日月両世界旅行記

Posted in フランス文学 | No Comments »

月はまだわかる。も、太陽がいよいよもってわからない。

私はからだのまわりに露を満たしたガラスびんをたくさんくくりつけた。(p.12)

月に行くときのスタイルです。実際は(実際は?)「いくらでも高く上昇できると思われる機械」(詳細解説なし)で飛び立つのですが、基本的な推進力はこのガラスびんです。ガラスびんはフラスコ状で、15ページの挿し絵では、瓢箪を腰の周りにぶら下げた男が、「うひゃあ」というポーズで宙に浮いています。瓢箪の中の空気が熱せられて軽くなり?宙に浮かぶ?うん、セーフ。ギリギリセーフ。これなら月に行けるかも知れない。何をやっているんだこの人はと思いますが説得力、ギリギリあります。

が、しかしですね。太陽へは、箱でいくのですね(p.237)。えぇ。箱としか呼びようがありません。手品とかに使いそうな感じの。一応、帆のようなものが付いています。風を受けるのか?風で太陽まで昇るのか?

まぁいいです。いくんです。いけたんです。いけたはいいんですけど太陽の、何をどう解釈していいかわからない。

そこである動物が息絶えると、いや、もっと正確にいって、消えてしまうと、その実体を構成していた火性の小物体はこの燃え立つ世界の粗大な物質の中に入る。そして偶然にあの三本の川の退役に潤されるようになるのを待つのだ。そのときになるとこれら小物体は、それが本来もっている流動性のゆえに動きが自由になり、川の水によって漠然とながら教えられた諸機能を早く実行しようと長い繊維状になって互いに結びつき、発行部分の入出によって鋭い光線となってまわりの諸天球へと広がっていく。(p.381)

これ、まだまだ続きます。太陽に住む動物たち(平均寿命7〜8000年)の死に様を描いているのですが、具体的にどういう絵を想像すればよいのかわかりません。そのせいで、ガリバーよりもマイナーなのだと思われます。

月よりも太陽が難しいのは、月からは戻ってくるけども太陽へは「行きっぱなし」(未完?)だからかも知れません(ネタバレなので伏せておきます念のため)。

プラトーノフ作品集

Posted in ロシア文学 | No Comments »

5歳から10歳くらいだった頃の、ひもじかったことと、蛇やら野犬やら蜂やらとの格闘に必死だったことを、おそろしく鮮明に思い出しました。(「ジャン」)
飢えや、ただこちらが傷つけられないために他の生き物の動きを止める、という場面を読むのが初めてというわけではもちろんありません。題材としてはおそらくポピュラーで、これまでもいくつも目にしている筈です。
これはしかし別格でした。
報道写真よりも強烈でした。

ギリシア恋愛小曲集

Posted in ギリシア・ラテン文学 | No Comments »

書名からすると、うっとり麗しい詩集か、という予測は大ハズレでした。
色恋がらみの短いお話集ですが、どちらかというと激越なものが多いです。

(p. 140)王族の一人アリストデモスが娘を(引用者注:生贄に)差し出したところ、娘の婚約者が進み出て、娘の権利はもはや父親にではなく許婚の自分にある、娘を生贄にはさせぬ、と主張したが甲斐なく、次に若者は、娘と自分とですでに関係を結び子を孕んでいる、と言いたてる。父は激怒して、娘を殺し腹を割き、妊娠していないことを示した(パウサニアス『ギリシア案内記』4・9・3以下)。

これは本文ではなく訳者補注にあるものなのですが、本文の方も、その逸しかげんは遜色ありません。
しかしやたらあっさりと殺したり自害したりするのは本ジャンル頻出パターンなのでもはや珍しいという気にはなりません。それよりも、

スパイ志願して敵国へ向ったアラスパスはいったいどうなってしまったのでしょうか(「パンテイアとアブラダタス」)。
てっきり当て馬的な目立つ脇役かとばかり思っていたのに、途中で放り出されたまま終幕してしまいました。
どうも長い作品(『キュロスの教育』)からの抜粋らしいので、掬い取ってはもらえなかった部分におそらくアラスパスの顛末も有るのだろうと思うのですが…

ところで、物語の中で脇役がそれほどぞんざいには扱われなくなったのはいったいいつ頃からなのでしょうか。

お話の設定(人が考えること)のバリエーションはもうとっくの昔にかなり豊富に出揃っていた、ということは、ここしばらくのギリシア・ラテンもの集中でよく分かりました。
「神は死んだ」の言い出しっぺがニーチェではなかったことは前回の聖書集中で知って穴があったら入りたい恥ずかしさでしたが、もうこのさい『チャタレイ夫人の恋人』の原型はアフロディーテとアレスなのかとかでもかまいません、記録に残ってないとか解読できないものとか風化したものもいくらだってあるだろうことを思えば、「目新しい話」の原型はどこまで遡れるのだろうという気が遠くなる空想はひとまず棚上げして。

無視されない脇役、もしくはパッとしない(脇役のような)主人公は、最近のものなのか、そうでもないのか。

岩波文庫のギリシア・ラテン文学40数冊に、私が読んだ限りでは、ポール・ペニーフェザーは居ない、ような気がするのです。
オデュッセウスはマッチョではないかもしれませんが、口が達者すぎますし女を捨てて逃げますし盗みもするし皆殺しもします。
たんに文系だったら穏当かというとけっしてそんなことはない。

たまたま岩波文庫にはまだ収録されていないだけで、「ふつう」な主人公もやはり大昔から居るのでしょうか。

ギリシア・ローマ古典文学案内

Posted in ギリシア・ラテン文学 | No Comments »

岩波文庫のギリシア・ラテン文学ジャンルには、各章のはじめに「梗概」が付けられているものがかなり有ります。
時間に追われている人に対して親切だなぁと思いつつ、それがまた肝心の本文より、すっきりと整理されているぶん(とくに話の筋については)梗概だけ読んだほうがむしろ頭に残りやすかったりするので、こういう便利なおまけがあると、はたして本文に通り一遍でもきっちりと目を通す人はどのくらい居るのだろうか、と。

そして本書は、それら重宝な梗概よりもさらに簡潔にまとまり、かつよりいっそう充実させた作品・作者・地理・時代背景・後代への影響ガイドになっています。
あまりにも充実していて、これをきっかけにして本ジャンルの岩波文庫を読んでみようという気になるのか、危ぶまれるような気がしてくるほどです。

むしろこれ1冊でかなり読んだつもりになりそうというか、過度の満足感が得られそうな…
実は、まだ手をつけていない青版ギリシャもの(本書はこの範囲もカバーしています)について、まさにいま↑この気分になっています。
おそらくこのまま相方に押し付けることになるのではと思われます。

コンパクトで入手もきっと容易(2005年8月で第50刷)、写真付き。
けっしてこれまで読んできた40数冊が無駄に思えるということはないのですが、(個人的に、ルキアノスは全文読んだほうが面白いと断言します)が、この無謀な苦行企画がなかったら、私はきっとまず最初にこの1冊を読んで、それでもうギリシア・ラテンには納得満足して、それっきりになったのではないか、という気がします。
良いガイドブックとはいったい何なのか、にわかに考えさせられました。

古代希臘文學總説

Posted in ギリシア・ラテン文学 | No Comments »

画数の多い旧漢字の表記かつ小さな活字が読みづらいという難点はあるかもしれません。
しかし、漢字表記に原語(カタカナ)のルビ付き、という形式は、読み進みやすいし意味も取り易く、むやみにカタカナ語→註参照の多い訳文よりはずっと読み易いと感じました。

喜劇の変遷についても触れられているし、哲学に分類されている人物も広くカバーしていて、しかもブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』よりコンパクトです。

表記法が古いというだけでなく、ひょっとして学説としても古いとか、素人は知らない事情があるのかもしれません、けれどジャンル特有の用語や人名を学習するには悪くない1冊、品切れ放置しておくには惜しいと思います。

Read the rest of this entry »

中世騎士物語

Posted in ギリシア・ラテン文学 | No Comments »

『ギリシア・ローマ神話』と同じ著者/訳者だとは思えない容赦のなさです。

(p. 25) 物語のできる最初の形は粗野な詩の形である。物語が王侯騎士の饗宴の席で歌われ誦されたのはそういった形であったと想像されている。
 散文の物語が現れて来たのは、13世紀も終りに近い頃であった。それらの著述は、先ずもって、作者が実はそこから材料をとって来ている種本を否定したり、けちをつけたりすることで始まるのが常であった。物語は皆正史だと思われていたのだから、もし散文の物語の作者たちが、自分たちは実は遊歴詩人の写字生に過ぎないなどと言おうものなら、たちまち信用を失墜したであろう。反対に、彼らは一般に流布している詩は誤りだらけであって、某々騎士の正真正銘の歴史を、彼らはラテン語、ギリシア語あるいは古代ブリトン語、アルモリカ語の原典から翻訳したのだと述べた。ただし、その原典なるものは彼らの断言の中にだけ存在するものなのであった。

これは読みようによってはたとえば

散文の物語の作者→現代版の異聞(異議申し立て)作者
遊歴詩人→先に作ったひと
信用を失墜→書く理由の消失
原典→真理

などと置換され、生半可な「書く意欲」を踏みつぶすには格好の言い回しではないでしょうか。

たぶんこういった牽制のようなことは言葉を換えていろんな人が言っていて、それらをものともせずに書くのはどういう場合か、と推測すれば、おそらく人の話なぞ聞く耳を持たないか、あるいは書かねば死ねないくらいよほどの怨念を抱えているか、あとほかにはどんな状況がありうるか…
強制されないと日記すら書く気にならない者にはもうよくわかりません。

ところで序説はあれこれと面白かったものの、肝心の騎士物語本文はというと、読み進んでも読み進んでもいっこうに登場人物たちの区別がつかず、半ばを過ぎる頃には「せめて挿絵でもあれば…」と弱音を吐きました。

これまで、挿絵というのは読み手の想像を限定させるものだと思っていましたが、挿絵の助け無しには人物がまったく像を結ばない事もありうる、とはじめて知りました。
ひょっとすると、このジャンルというか世界観が、それだけ私には向いていないということなのかもしれません。

ギリシア・ローマ神話

Posted in ギリシア・ラテン文学 | No Comments »

(分類番号から行くと赤200番台→イギリス文学なのですが、『岩波文庫解説総目録』ではギリシア・ラテン文学へ振り分けられています。当ブログでのジャンル分けは解説総目録に従いました。)

巻頭の夏目漱石による序文に「呑気な」とあるのがひっかかり、これまで読んできた岩波文庫中のギリシャ神話・悲劇・喜劇他は様々なノリの作品があったけれどもさて「呑気」なのはあったろうかと…

ところが本書を読むと、たしかに「呑気」に見えてくるのです。
何故か。

多くのエピソードが1冊にまとめられているので、端折っている部分はあります。
誰に何が起きたかは基本的に省略されていないようで、

(p. 253 リノス)
 リノスはヘラクレスの音楽の先生でありましたが、ある日あまり手厳しく叱ったので、ヘラクレスは腹を立てて、竪琴で彼を叩き殺しました。

誰が何をどう言ったかはだいぶん簡略されているようです。

セリフを削って起きた事だけを記述してゆくと殺伐が「呑気」に変容するのか、と一瞬だけ思ったのですが、どうもそうではなくて、これはおそらく訳文体のせいかと今は考えています。

しかしそれはともかくとして、よくまとまった本です。
岩波文庫の本ジャンルに版元品切が多いのはこの1冊のせいではと勘ぐりたくなるほどです。

「このさき原典すべてを読破する暇は取れそうにない。えげつない細部とか笑いとか艶とかはこのさい、すっとばしても構わないから、ギリシア・ローマものをできれば1冊でざくっとさらえるのは」と訊かれたら、これを推します。
厚さ約1.7ミリで重さ250グラム弱、と通勤通学のお供にも手頃。
新刊として買っても800円(税別)、2006年10月時点で48刷ということはおそらく古書店での相場も高騰してはいない筈です。