Archive for the 読書部 Category

遠すぎるリアリズム

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ある日の午後、操縦係のジプシーとうれしそうに手を振る数人の村の子供たちを乗せて、空飛ぶ魔法の絨毯が工房の窓をかすめた。

というようなことがしれっと書いてあって何ら違和感のないあたりが、リアリティだと思うのです。ホセ・アルカディオ・ブエンディアはそちらの方を見向きもしないで、こういいます。

「せいぜい楽しませておけ。わしらは、あんなみっともないベッドカバーよりもっと科学的なやり方で、やつらよりうまく飛んでみせるから」

ここでホセ・アルカディオ・ブエンディアが論点としているのは「科学ー非科学」の対立ではありません。「かっこいいーかっこわるい」という価値観の問題なのです。ホセ・アルカディオ・ブエンディアにとって、科学はかっこいいがゆえに正当なのです。でも子供たちにはそんなの関係ない。空飛べりゃ何でもいいんです。魔術が飛んで科学が飛べないのであれば、科学に用はないのです。

そうです。マジックリアリズムのヒントがここにあります。科学は無用なのです。代替物としての魔術もおそらく必須条件ではない。死なないアウレリャノ・ブエンディア大佐も、飛んでった小町娘のレメディオスも魔術じゃない。じゃあ何か、ってそれがわかればノーベル賞なのでしょう。

まだ、すこし時間がある

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まずはアントニオ・タブッキの「新作」が出版されたことに万歳。そしてテーマはたぶん「死」。寓話はエピローグから始まり、推定主人公ガリバルドは額に銃弾を受ける。「国王、くたばれ!」

続く第一章冒頭でガリバルド(もともとの名前はヴォルトゥルノ。父の死後ガリバルドを名乗る)は父ガリバルドの死に臨む。死とは何か、よくわからないと思っているところで、父ガリバルドが棺桶から起き上がり一晩中、人生とは何かについて息子ガリバルドに滔々と語る。そして死ぬ。死はやはりよくわからないものとして残される。

ちょっとしたヒントは示される。ガリバルド(もともとの名前はヴォルトゥルノ。父の死後ガリバルドを名乗る)の伯父にあたるヴォルトゥルノ(ガリバルドの兄)が教えてくれる。

ある日、クワルトがやってきて、栗毛の馬からおりもせず、戸口から顔をのぞかせた。ヴォルトゥルノは今まで感じたことのない不安を感じた。それは死んだ後に感じるはずの、いやしようのないノスタルジーだった。

死に対する恐れというのはこのノスタルジーなのではないか。われわれは生まれながらに臨死している。それは生きているものはいつか死ぬという死の先取りのみならず、生まれる前は死んでいた、つまり生に先立つ死の記憶をも意味するのではないか。生の反対は死ではない。われわれの生にはすでに幾分かの死が含まれており、生は、生と死の合い挽きミンチなのだ。だからフランス人は言うのだ。さよならをいうのは少しのあいだ死ぬことだ。

あれ?逆か。生れた後に感じるはずのノスタルジーだな、これじゃ。まぁ同じことか。ヴォルトゥルノもエスペリアに、結末からはじまる逆さまの話を聞かせていたというし。

後日談直前の最終章は「ひとの死は、金で買えるものじゃない」。当たり前です。肉屋で「挽肉の肉だけ売ってくれ」って言っても無理ですしね。何が入っているのか、知れたものでもないですし。

「ダメ王子」と「シンデレラ」

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「各氏絶賛」ということで帯買い、帯読みです。とりわけ、法月綸太郎氏の推薦文。

ダメ男の王子様と、戦うシンデレラ。

起死回生の逆転愛が待ち受ける必読の名作。

さすがとしか言いようがない。これが、作品に対する敬意と誠意ですよ。読書中、何らかの違和感を覚えたら、思い出してください、「ダメ王子」と「シンデレラ」。

私やっとわかりました。私がなぜいつも騙されるのか。フーダニットです。誰がやったのか、そこにばかり注目して足を取られる。いや、殺人事件なんだから、誰かがやってるのです。それは間違いないんだけれども、「ダメ王子」と「シンデレラ」。

そして私は第九章を二度読みました。序章を三度読んでからもう一度終章を読んで泣きました。

以下、ネタバレではなくネタズレなので追記にします。

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期待されることは必ず起こる

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ナイフ投げ師ときいただけで、これはもう、刺さるしかないのである。

ナイフ投げ師ヘンシュが私たちの町に立ちよって土曜の晩八時にただ一度だけ公演を行うと聞いたとき、私たちはどまどい、自分の気持ちもうまくつかめなかった。

嘘である。ナイフは刺さるのである。それ以外はありえない。欲望ですらない。事実が、ただ眼前に提示されているのである。その唯一の期待にミウハウザーはいかに応えるか。ナイフ投げる、刺さる、ミルハウザー。これに優る快楽が短編小説に見つかるか?

同様に、気球飛行ときいただけで、飛び降りたくなる。パラダイス・パークときいただけで地獄である。夜の姉妹団ときいただけで、いかがわしい秘密に塗れた少女たちの儀式でしかないのである。

夢ではない、偽ではない虚でもない。魔術という名の現実に、圧倒的な迫力に、ただただ飲み込まれるばかりなのである。

追記的に書いておくと、「ある訪問」はどうしようもなく遣る瀬無いよ。こういう類いの幻滅というかおぞましさというかある種の愛情は年を取れば取るほど薄まってはいくもののなくなることはない。たぶん。時々思い出す。で、「なんでそうなるのかな」と口に出してみたくなる。

めんどくさい

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トロイの馬とかもう本当にうざったい。こういう馬いるよなぁいるいると思わせるあたりが堪え難い。「さあさあ、いいですか。有名な町といったら? ほらっ、ほらっ」…本気で勘弁してほしい。

アリスがフランスに行くとかもう考えられない。不思議の国にでも行っときゃいいのに、よりにもよってフランス!そしてnnnnnnnnn!そりゃそうだろうよ。そうなるだろうよ。

揚げ句の果てに「夢の話をたっぷりと」と。「当然ながらこれらの夢は…」などと得意満面で。お前は誰だ。何様のつもりだ。夢の話だとふざけるな。

そもそも、ウリポからしてが面倒くさいのだ。こんなことをいう。

シャルボニエ 処理が施されると、確かにシュルレアリスム的でしたね。

クノー ええ。しかしそのことには何の興味もありません。我々はシュルレアリスムを実践しているわけではないのですから。見かけはシュルレアリスム風かもしれませんが、用いた方法は違う。ここがとても重要な点です。

シュルレアリスムは属人的だ。ある程度の天才が自動記述するから、ある程度のすばらしい作品が生まれる。しかし、S+7法はそうではない。誰がやっても同じ結果になる。つまり、方法を正しく用いれば、そこそこの傑作が書ける。面倒くさい。非常に面倒くさい。だがこの面倒くささが、快楽なわけだ。コンピュータによる自動化などありえない。プチプチを雑巾しぼりで潰すようなものだ。辞書を引く面倒を喜びたい。いちいち満悦したい。こんなに面倒なものが遊戯であるはずがない。作業だ。ただただ反復する作業だ。凡人のために用意された手を動かす作業なのだ。

でも、結局ウリポは幾人かの天才と出会ってしまった。僥倖だといわざるをえない。

黄表紙

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先月の観光みやげに買いました。

金閣寺が禅寺だったことに意表をつかれ金閣寺限定販売キティキャンディ(缶入り)のペカペカ感に動揺させられ、いろいろと面白かったのですが、いちばん度肝を抜かれたのはこの小冊子でした。
英語表記で見ると膝を折られるような気分になるのは何故かといったことはともかく、目にした瞬間に二人して表紙買いを確信させられました。相談するまでもなく。
無難な栗入り生八ツ橋とかちょっと良いけど予算1桁超過の香炉とかはもうどうでもよい、これだけで今回の遠出は元を取ったと満足。
色に目が眩みました。
もし表紙が龍安寺石庭の写真とかであったなら見過ごしていたでしょうおそらく。

肝心の本文はといいますと、「般若心経」以外の原典をまったく読んだことが無いのであくまで憶測ですが、たぶん英語で読まされるほうが分かり易いのではないかという気がしました。
細部のニュアンスはともかく、座禅の本筋を大まかに把握するには。

ただ。
「十牛図」はもうまったく、さっぱり、脈絡不明でした。
百頭女でもここまで訳が分からないことはないのでは…。
日本語版でも同様にクラクラするのかどうか、相方の蔵書にあるようですので、あとはあちらに振りたいと思います。

※ISBNは付いていませんが、発行元から直接購入可能です。
(→禅文化研究所HP)

虚学と実学

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人が生きていくのには虚学が必要です。虚学というのは具体的に名指すのは難しいのですが、例えばライプニッツとか、書肆風の薔薇とか、そういった類いの羨望であると私は思います。私は、人は虚学のみで生きていくのだと23歳頃までは信じておりました。実学というものがこの世に存在することを知らずにいたのと、あとこれは臆見以外の何ものでもないのですが、90年代という空気がそれを許していたのです。実学というものの存在を知るきっかけとなったのはコンピュータです。私は23歳の頃に生まれてはじめてパーソナルコンピュータとの対面を果たしたのですけれど、なぜコンピュータが私に実学を知らしめたのかについては、まだうまく説明できないので、今日のところは触れません。ただ、虚学だけで生きていくのは困難で、実学をも吸収していかねばならないのだと、23歳の私は強く意識したのでした。

実学とは何か虚学とは何か、抽象的にといいますと、実学とはみんなを幸せにして誰かを不幸にする実であり、虚学とは誰をも不幸にはしないが自分だけが幸せになる虚です。だから私は人類全部が虚学をやればいいと思っておりました。人類が全部、虚々諤々のうちに、虚学をやれば幸せだと思っておりました。でもそんなことは無理なのでした。人類は私が思っているほどには、虚学というもののもたらす多幸感を享受しないのでした。残念だ。だから、実学が必要とされてきた。

実学というのは比較的容易に名指すことができるもので、具体的にいいますとゲーム理論です。ゲーム理論こそが実学であると、今年に入って知りました。今年に入って知ったのですが、忙しくもないのに忙しいふりをしているうちに10月にもなってしまい、慌ててゲーム理論をやさしさでひも解いた読み物を入手したのでした。実学をやらないと生きていかれない。われわれはパンを食べずには生きていかれないし、パンがなければあんパンを食べればいいし、アンパンマンを呼べばいい。噛ればいい。

やっと、本題に入られます。これくらい言い訳しないと入られません。

本書はゲーム理論を最も簡単なことばで説いた一般書です。簡単とはいえ、インセンティブとかコミットメントとかシグナリングとか、もう毎週毎週耳にするから何となくわかったような気にはなっていたけど、じゃあ何?って聞かれると何も答えられないような専門的な概念について、しっかり抑えてくれています。専門的?専門的です。コミットメントなんて、まず、日常生活では使いません。耳にはしますが、口にはしません。少なくとも私は何かにコミットメントしていることを意識しながら生活する環境に馴染んでいません。馴染んでないから、実学の存在をすら知らなかったのですよ。

あらゆる具体例をスルーして私の理解したところをまとめさせていただくと、戦略的環境においては自分だけが合理的なのではなくて相手も当然に合理的なのであり、相手は戦略的に最も有利な方法で攻めてくる、ということを念頭において、相手は戦略的に最も有利な方法で攻めてくる、ということになります。ここで悲しいのは、自分だけが合理的なのではない、ではなくて、自分だけが合理的でない、ということなのですね。そうなんです。相手は世界は戦略は合理的であるにもかかわらず、私は合理的ではないのです。そこがつまり、みんなを幸せにして誰かを不幸にする、その誰かというのは私に他ならないということです。ゲーム理論は実践されない、ということなのです。

いや、厳密に言うと、ゲーム理論は、理論抜きでは実践されない、ということです。そこに救いを見出したいです。たぶん数学とか経済学とか囚人とかをもっと勉強すれば、実践されうるのではないかと思うのです。というのはつまりルールだから。合理的ではない人でも、ルールを適用することはできるはずです。赤信号を渡っては行けない理由を知らなくても赤信号を渡らないのと同じです。道路交通法に書いてあるからです。てなわけで、もう少し読んでみようかなと思いつつ、書店の専門棚を前に頭を抱えるのです、無理だ。何かもう、数式が無理。と拒絶している時点で悲しい実学。

道具としての感情

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読んだことがない人などこの世には存在しない人気作家の直木賞受賞作。3年前の作品が再び脚光を浴び始めたのは、文庫化+映画化だからなのですね。原作ものの映画といえば気になるのはキャスティング。湯川役は佐野史郎確定として、石神とか草薙とかは誰がやるのでしょうか。誰でもいいような気がします。というのは地味。地味すぎる。

元ホステスで現弁当屋店員の女とその娘、彼女らの隣人であり女に思いを寄せる高校教師。犯人なんですよ。この三人が。これを地味といわずして、何を地味とすればよいのか、私にはわかりません。実際地味なんです。予想どおり地味なんです。でも、私は泣きました。純愛とか数学とかとは無関係に泣きました。そして、断言できます。映画では泣けません。これはもう絶対に、活字でしか揺さぶられない。以下、ネタバレですが、内容には一切触れられませんし短いです。

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困難な装置

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小説の読者は、その小説の展開を予想(期待)する。付箋のページを追うだけで、読者がどのような展開を予想(期待)したかがわかる。大変よくわかる。どのあたりで裏切られたかもわかる(たいていの場合は裏切られる)。読者の欲望に忠実であることが小説に求められるとすると、付箋を辿り、剥がしながら再読することによってしか、今回は感想を書くことができない。

ミシェルとブリュノは異父兄弟だった。この二人を中心に物語は展開する。ブリュノ寄りに物語が展開することを私は期待した。

ミシェルは不思議な男の子だった。サッカーのことも、流行歌の歌手のことも何も知らない。クラスの嫌われ者だったわけではない。口をきく相手は何人かいた。しかしそれはごく限られたつきあいだった。アナベルの前に、ミシェルの家に誰かクラスメートが来たことは一度もなかった。ミシェルは一人で考え事をしたり夢想にふけったりするのに慣れていた。ガールフレンドがそばにいることにも、徐々に慣れていった。

この時点で私はミシェルをうまく思い描けなかった。まだ70ページ目だったが、感情移入を放棄した。

ミシェルがダメならブリュノしかないわけだが、恥ずかしいことを告白すると(と予防線を張って告白すると)、私はもう少しのところでブリュノになりそこねた。あるいはならずにすんだ。たぶん、私ぐらいの年代で、日本人で、男性で、ブリュノに肩入れできる人は多い、のだろう、と思いたい自分が少し、疎ましい。

ブリュノはこの恐るべき幸福に浸された数秒間のことを、何度も繰り返し思い出すだろう。カトリーヌ・イェンサンがそっと手を押しのけた瞬間のことも思い返すだろう。

ここでミスリードされた。というよりも、自ら進んで誤った道に踏み込んだ。ここは70年代初頭のフランスだったのだ。ゼロ年代の日本ではなく。ゼロ年代の日本だったら、問題は異なる様相を見せる。

以下はもう本当に文字通りの不審紙。

若いころミシェルは苦しみによって人間はさらなる威厳を得るのだと信じていた。だが今となっては間違いだったと認めざるをえない。人間にさらなる威厳を与えるもの、それはテレビなのだった。

なんでテレビが出てくるの?ポピュリズムけつくらえ?

ブリュノはリラックスしてなりゆきにまかせよう、<ロックン・ロール>だと心に決めた。

<ロックン・ロール>か。<ロックン・ロール>なのか。

セックスは、ひとたび生殖から切り離されたなら、快楽原則としてではなくナルシシズム的な差異化の原理として存続するということが彼には理解できなかった。富への欲望に関しても同じことさ。

これってフランス人だけなんじゃないのー、って思ったんだけど、どうもそうではないらしく、ただ、どうもそうではないらしいというようなことを書くとなんだか嫌らしい。というのは競争の埒外にあることによる優越性というか、つまりいうところの、すごい、めんどくさい。そう。めんどうくさい。めんどうくさいがゆえの。性愛による(90年代)、あるいは消費による(80年代)自己実現って話になるのかな。そういうもので実現するのは幸せなのだと思うけど、そういうものではなく実現する自己もあるし、そもそも実現するだけが自己ではなく、いやもっと言ってよければ自己なんてものは近代という架空の世紀が吐き続けた嘘なんだから。それさえ分かってたら、あぁいう痛ましい事件は起きなかったはずなんだ。

ブリュノを一人の個人と考えることができるだろうか?内臓の腐敗は彼のものであり、肉体的衰えと死を、彼は一人の個人として知ることになるだろう。だがその快楽主義的人生観、そして意識と欲望を構造化する力の場は、彼のジェネレーションに固有のものだった。…ブリュノは一人の個人とみなされうるとしても、別の視点に立つならば、ある歴史的展開の受動的要素にすぎないともいえるのだった。彼の抱く動機、価値、欲望。そのいずれもが、同時代人に対し彼をいささかも差異化するものではなかった。

ブリュノがそういう種類の差異化を求めているようには私には思えなかった。ブリュノはブリュノにふさわしく性愛に対する欲望に素直で、素直であるがゆえにもてあましていただけなのではないか。満たされないことへの苦悩が見えてこないのである。カトリーヌ・イェンサンに手を押しのけられた瞬間でさえも彼は、不満足ではなかったのではないか。

土手の草は焦げてほとんど白くなっていた。ブナの枝がかぶさる下を、濃い緑の川の水が延々とうねりながら流れていった。外界には固有の法があったが、それは人間の従う法ではなかった。

これがフランスの小説なのだと思うと胃が重い。フランスというのはもっと、ルールへの忠誠のみで成り立っているのではなかったか。こんな映画みたいなフランスは読みたくなかった。鯖はすごく美味しいんだけど、食べて何時間ももたれる日曜の夜、そんな感じのフランスだった。勝手に読めと、突き放された気分のフランスだった。ロブ=グリエと同じ学校の出身か。人間ってほんとうに、めんどうくさい生き物ですね。

これだから古典は怖い

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ノックスの十戒に足りないと私が思うのは「犯人は小賢しく」という項目です。これは「現代版」十戒という意味ではなく、あくまでも当時のノックスに、自らの十戒に加えてほしい。十一になるのは困るということであれば、「中国人禁止」か「ワトソンちょっと馬鹿」の項目を削ればいいでしょう。

という前置きを置いといて、あぁもうびっくりしましたよ。これ、他の作家が書いてたら間違いなく代表作ですよ。完全に油断したし、よもやこれほどまでに全力でフーダニットだとは、予想だにしなかった。そう、予想だにしなかった。

16年前の画家毒殺事件。犯人は妻。有罪判決懲役刑。そして、妻獄中死。なんだけども、妻は娘に「私は犯人ではない」という遺書を残していた。娘からの依頼を受け、ポアロ登場。

大昔の解決済み事件なので、手掛かりは関係者たちの「信用できない」証言しかありません。無理。その時点で無理。そしてご丁寧にも、その関係者たちに「信用できない」手記まで提出させるのです。カロリンに好意的な人も敵意的な人もみんながみんな、カロリンがやったと思ってるのですよ。

ここからネタバレですので、まだの人は絶対に読まないでください。人生の大いなる損失ですので。本当はもう、こうやって感想書いて公開していること自体がネタバレになっちゃうんですよねミステリは。

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